『そこ』にいるこいと

日々の棚卸

今自分がいる場所がどこか、どんな理由で、どんな経緯によるのか、人それぞれだと思います。事情があって、許容範囲があって、無知や思い込みがあって、もちろん期待や希望があって、自分を『そこ』に置いているのでしょう。

いずれにしても、『そこ』を選択したのはあなたです。

 

・・・。

 

いささか挑発的に感じたかもしれませんが、選択の責任を取りなさい、とかそういうことを言いたいのではありません。動きたければ動けばいいし、いたければいればいればいい。

この文を読まれているということは、その反対、つまり動きたいのに動けない、どんどん動いて自分で自分の居心地を悪くしてしまう、という状況ではないかと推測します。はずれてたらごめんね。

ただ、いずれにしても今『そこ』にいるのは他の誰でもない、あなただ、というのはまぎれもない事実です。動こうが動くまいがあなた以外の誰かがその結果生じることの責任を取ってくれるわけではない、だから大なり小なり自分はほんとはどうしたいのかと自らへの問いかけを繰り返す。

 

『そこ』とはどこでしょう。

おそらくは居場所と受け止めるのではないでしょうか。

しかし、場所、といいつつ、物理的な場所のことではない。原家族、自分が親となる家族、仕事先、隣近所の人々との関係、学友、趣味の友達、ちょっとした知り合い・・・。

つまり、居場所とは、居心地とか所属感ということなのではないでしょうか。

そして、『そこ』に共感があれば居続けるし、違和感が一定以上膨らむと『そこ』を出る。

 

『そこ』がそうやって自分の意志に沿って動ける(と思い込んでいる)場所であれば、きっとそれほど悩むこともないのでしょう。

現実には、『そこ』は家庭や会社のように、簡単には乗り換えてしまうことができない(と思い込んでいる)“関係性”のことだったりするから、悩むことになる。

 

私たちは自由な世界にいて、自分で物事を決めることができるし、権利を持っている。言い換えれば、根源的な決定は自分自身の責任に帰結しています。

どんなにつらくても一つの会社に勤め続けている人もいれば、転職を繰り返す人もいる。4回5回と離婚結婚を繰り返す人もいれば、信じられない言動を受けても頑なに’家族‘を続ける人もいる。

これらが良いとか悪いとか言っているわけではありません。

ただ、少なくない方が自分にとっての『そこ』にかなりの不満を持っていて、しかもこの先も自分の大切な『そこ』を確立する可能性を疑ってしまっている。これは言い換えれば、自分自身の力と可能性に猜疑心を持ってしまっているわけです。

 

『そこ』にいることが苦しいのはなぜでしょう。

なぜ、苦しい上に納得しているわけでもなく、『そこ』にとどまり続けるのでしょう。

なぜ、移り変わった先々で、『そこ』は同じように苦しいのでしょう。

条件?

人の関係?

肌に合わない?

自分の性格?

 

もう一度問います。

なぜ、『そこ』なのでしょう。

 

もしかして、あきらめてしまっていませんか?

自分の持てる力、センス、これまでに培ってきた経験や洞察、そして自分という存在そのものを、疑ってしまっていませんか?

もし、そうだとすると、『そこ』がどこであれ、取り巻きが誰であれ、システムがどうであれ、きっと今後も苦しいままだと思います。

 

『そこ』にいることが耐えられそうもなく苦しいのなら、“自ら”に変化を促しましょう。

『そこ』にいることで、

怒りに苛まれているなら

自分が崩壊してしまう感覚があるなら

気持ちの悪さを感じるなら

怖さに包まれているなら

行き詰っているなら

 

変化をするのは、あなた自身です。

特に、損得や目先の利益(これらも大切ですよ)で動くことができないのであれば、『そこ』にいることの意味を履き違えているかもしれない、と振り返ってみていいと思います。

 

『そこ』にいること。

 

心理の世界で、家族伝搬という言葉があります。

家族内の価値観は世代を超えて伝わる、という意味です。

大人になるほどに、その価値観を強化する方向に物を見、理解するようになることがわかっています。

それは人を、組織を、社会を、男を、女を、未来をどう見るか、どう立ち振る舞うべきか、といったことで、親の言動などよりも、当人たちの背中や雰囲気を察知する繰り返しの中で私たちが吸収してきたものです。

そこにきちんとフォーカスしましょうと提案する所以です。30代、40代はおろか、死を迎えるその日まで、ずっと『そこ』に違和感を感じ続ける方々を見ていると、一度立ち止まってみるのが良いと思います。

 

だから、もしあなたが『そこ』にいることが苦しくて、

『そこ』に居づらいために、(結婚、会社、友人などの)関係を変えてばかりいるのなら、なぜそんなことを“繰り返す”のか振り返ってみてください。

『そこ』が明らかに合わない、常軌を逸していると感じているにもかかわらず居続けているなら、なぜそうなのか振り返ってみてください。

 

きっと私が想像するまでもなく、

自分を蔑む自分

自分を敵視する自分

自分を疑う自分

で凝り固まっていないでしょうか。

 

それがどこから来たのか、原因を追究したければそれもいいでしょう。

しかし、大切なことは原因がどうであれ、その結果吸収してしまったものが自分を雁字搦め(がんじがらめ)にしてしまっているのなら、その解放が最優先であるということです。魔法にかかった自分を解いてあげなくては。

日常の一コマ一コマの中であなたの中に生じる細かな批判まで含めて、これからはどんな時も自分が自分の味方になることです。いつも言う、100%自分を受け入れるという意味です。そしてやはりいつも言うように、自分を受け入れることは自己正当化ではないことも覚えていてください。

どんなことが起こったとしても、どんな立ち居振る舞いをして、どんな批判を受けて、どんな感情が芽生えたとしても、あなた自身にしかわからない理由があるでしょう。その自分にとことんまで味方になってあげるのです。対人的に正しい、相手が間違っている、とやってしまわないこと。あくまで、あなたがあなたの立場に立ってあなた自身を擁護するのです。これができないから、『そこ』は苦しくなるし、『そこ』が苦しい人はそういう教育を受けてこなかった場合が多く見受けられます。しかし、これは後天的に学習することができるものなのです。

 

先に、人の関係=自分自身との関係、と書きました。

これは、自分を受け入れ続けて自分の中に肯定感が育ってくると、人もまた自分と同じ彼・彼女の事情から振舞ったことが理解できるようになります。それは許すとか許さないとかではなく、そのことにこだわらなくなる=あなた自身がそのことから自由になる、ということなのです。

 

『そこ』にいたくなければ、『そこ』が何であるかによらず、次に行けばいい。特に、暴力や嘘がまかり通り続けているのなら、『そこ』を選択した自分を反省して、動くけばいいと思います。無理にしがみついて自分を疎かにしていられるほど、人生は長くありませんしね。

ただ、『そこ』があなたにとってどういう場所になるかは、自分が自身を受け入れる程度によって決まるのも事実で、『そこ』を居場所とするかの考慮の基準にすることをお勧めします。

灯台下暗し、ですね。

何かを始めたければ、『そこ』にいながらすればいい。

『そこ』もきちんと有効に利用して、その上で他の『そこ』を求めればいいと思うのです。

 

とにもかくにも、自分の一挙手一投足の味方になってあげることです。

よく、自分を笑えるようになりなさい、などと言うことを聞きますが、これは自分の味方になり続けて、自分が信頼できるようになってきた後の話です。いきなり自分を笑ったり、仕事やコミュニケーションのミスに自分で罰を与えたりするのは少し控えましょう。

 

『そこ』にいる力をもっともっと養いましょう。

 

『そこ』は縛り付けられる場所でもなければ、蹴飛ばされて追い出される場所でもない!

『そこ』はそれがどんな場所であれ、どうしようもなく嫌でない限り、選択した以上はあなたの場所なのです。

自分を受け入れ続けた先に、あなたにとって大切な『そこ』が“そこかしこ”にできますよ。

その時には、今よりずっと自分も未来も信じられるようになっているはずです。