以前紹介した二ーバーの祈り(平安の祈り)は、感情の波に襲われ、ジレンマに立たされた時に思い出すなり唱えるなりすることで、自分を守る変化の指針を示してくれると思います。
神様、私にお与えください。
変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものを変える勇気を
そして、二つのものを見分ける賢さを
この言葉がもしかすると紀元前から使われていた※のだから、人はいつの世も迷っているんですよね。当ブログは特定の宗教を敷衍する場でもないので、神様という言葉がしっくりこなければ、仏様でも火や月や水や空や雲でも、不可知の存在でも、自分の意志を超えた存在でも、とにかく人の力の及ばないところから私たちの日常に影響を及ぼしている可能性のある何かを想定してみてください。2015年に他界した水木しげるさんの「目に見えない世界を信じる」も、感覚的な根っこは同じだと思います。
※https://nakatanihidetaka.com/acceptance/
そういうわけで(?)、変えることと変えないことの前に、そこにつながる変えられないことと変えられることについて、話をしましょう。
さて、変えられないことと変えられること。
どんなことが思い浮かぶでしょう。
例えば、ゲーム依存症者の会社員を取り上げてみましょう。明け方までネットゲームにのめりこんでしまい、彼は会社に遅刻してしまいました。
会社に行くと、上司からの叱責や同僚からの嘲笑を受けました。家に帰ると、妻が毎晩やめろといっているのに何回やれば気が済むんだ、と文句を言ってきます。理由はどうあれ、周囲の人々から投げつけられる怒りや蔑みを含んだ言葉や態度は彼を痛めつけるでしょう。彼らの発したものは正論であることは間違いなく、しかも彼自身、やめなければならないことを頭では理解していながら、繰り返しこんなことをやってしまっている負い目もあって、言い返すこともできない。何度も襲ってくる非をあげつらう声が体中に怒りとも不安ともやりきれなさともいえる悪寒のような震えをもたらす。
そんなとき、彼にできることは何でしょう。何をすれば何がどう変わるのでしょう。何をしないほうがいいのでしょう。
答えは、少し下に書くことにしますが、この話は別にゲーム依存症者に限ったことではありません。もっと言えば、依存症者に限った話でもありません。
もっとも、依存症と言えば、アルコールや薬、過食・拒食、買い物、恋愛、セックス、借金、仕事などが精神医療現場で取り扱われているようですが、依存症の意味するところを理解していれば、依存対象はそういった限定的な類例に留まるものでもないことがわかります。テレビ、運動、長電話、ネット、甘味、読書など、それが本来目を向ける必要があることから目をそらすために行われていて、結果上記のような問題が発生するのであれば、立派な(?)依存対象です。
依存の定義は、日常生活に影響をきたすこと、つまり日々の人間関係や心身の健康、安全で安心した生活が、その依存によって蝕まれる状況につながること、です。つまり、その依存によって、目を背けている何かを放置しているために、あるいは適切な措置を怠っているために、白アリが建物を食い尽くしていくように、腐食や錆が広がっていくように、日常をとかしていってしまうわけです。例えば、職場に居場所はなくなり、人の関係から孤立し、家の中では夫婦関係は泥沼、子供がいれば引きこもっていたり荒れ狂っていたり、などです。
先に、この話は依存症者に限った話でもない、と書きました。
実際には、何かに依存しないまでも日々そういった状況に胸を痛めている人、怒りを抱えている人がいます。周囲の叱責に同一化して、自分を責め続け、でもまた同じことを繰り返してしまう。決して他人事ではないことは私自身も身につまされますが、抑うつ的になるか自信喪失するかして、鬱や引きこもりになったりしてしまう。
社会は自分の心の声が反響する場所です。
自分の皮膚感覚が表面化する場所と言い換えてもいいでしょう。
この言葉はだいぶ廃れた感がありますが、自己評価が具現化するところ、と言い換えてもいいかもしれません。
ここまで書いてくると、先の問いに対する答えも明確になると思います。
ゲーム依存症の彼の場合であれば、会社や家庭でぶつけられる言葉に傷つく自分に寄り添い、慰め、彼の立場に立って彼自身に向けて語ってあげることです。純粋にエキサイトしてゲームにのめりこんでいたのなら、日々の仕事や家庭生活には全くない楽しさがあって、本当にワクワクして、プロになりたいと思えるくらい興奮したんだよね、と言ってもいいでしょう。依存症者は楽しみからのめりこむことは多くはなく、むしろ嫌なことやつらいことを忘れるために惰性的にやっていたりするので、その場合は、気になったり、つらいことがあったんだよ、と言葉を与えることです。明け方までだらだらとそんなことをすることは、彼自身も良くないと思っているし、毎夜続ければ心身にダメージを蓄積することはわかっているのですから。逆に、彼以外の誰かに何かを言ったりしたりする必要はありません。というより、ともすれば気持ちが外に向かった途端、理屈は脇に置いてしまい、自分を痛めつける相手にやり返そうとしてしまいかねません。それが巷で騒がれる親への暴力や転職を繰り返す実体の一例だったりするわけです。
結局のところ、良く言われるように、
他人と過去は変えられない
自分と未来は変えられる
ということですね。
ちなみに、過去は変えられませんが、過去の解釈もまた、体感の変化とともに変わるものではあります。が、これはまた別の機会に。
とにもかくにも、自分にフォーカスしてください。
自分にフォーカスして、自分が良くなる、楽になること、自分らしく生きていると実感できることは、大切な人々の人生にも灯りをともすとともに、周囲の人々にも明るい変化をもたらすものです。
これもまた別の機会に話そうと思いますが、私たちは常に評価される人生を送ってきています。学校で評価され、社会で評価され、時には家の中でさえ存在そのものを評価され、それによってすり減っている部分が誰にでもあるものです。本当は、大人になるまでに学校や家庭で学ぶことは、良い意味で自分の存在そのものに自信を持てる自分を形成することなのですけどね。とりあえず、知っておいてほしいことです。
変えられないものと変えられるものを見分ける試みとともに、変えることと変えないことを見分けることも大切です。少々長く述べてきたように、変えられるものが自分に向ける自分の接し方であることは大切なことです。決して、他者や社会システムは、単に変えようと思って変えられるものではない、ということです。過去にはもちろん、たった一人の力で変えてしまったこともあるにはあります。ですが、そういった人々は徹底して自分自身に対する肯定感があった。良いところを見る力が秀でていました。例を挙げれば、マーチンルーサーキングやモハメドアリが米国でアフリカ系の地位を向上させたり、明治維新前後には、吉田松陰なども挙げられるでしょう。私は読んだことはないけれど、きっとセーラームーンなんかもそうなのかも。これは余談中の余談ですが。
では、変えられるものがわかったとして、変えてよいものと変えない方が良いものは何でしょうか。変えられるものは自分に対する自分の接し方だと言いました。裏を返せば、変えられる、という意味ではその範疇では自由自在です。かといって、変えてはいけないことを変えたり、変えた方がいいことをそのままにしたり、ということが起こりえます。
哀しい時、
気に入らない時、
腹が立つ時、
凹む時、
自分に対する接し方、寄り添い方はともすれば、感情的になってしまいます。
私たちの中にいる多くの自分は様々な感情となって感じられますが、変えられるものの中で最も刹那的に気持ちをよくしてくれるものには注意が必要です。かみ砕いて言うと、その感情を正当化しようとするとき、その原因となったところ、要するに自分以外の誰か、何かを変えようとしているわけです。
一方、その気持ちに寄り添うことは、その感情の元となったことや人の是非は問わず、自分の中の自分を攻撃する感情を慰め、つらかったんだと一緒になって横にいることです。
自分の中にあって自分を苦しめる自分を抱きとめ、嘆いている間ずっと一緒にいてあげるとともに、自分の外に対しては距離をおいて接するようにするのです。トラブルの元となった相手に対して物理的に距離をあけることは難しいでしょうが、自分の心や感情は自分のもの。相手に対する感情を自分の中で正当化することが、相手ではなく自分自身を怒りの感情の炎で焼き続けていることに気づけば、そういった損な心持であることが馬鹿らしく感じるようになります。
それでも「どうしてもできん」、という方は、最初はドラえもんに登場してもらいましょう。タケコプターを相手の頭に付けて見えないところまで追いやってしまうところを繰り返し想像してみてください。意外に効果があるかも。
いずれにせよ、上司の叱責も、同僚の侮蔑も、街の喧騒も、交差点のクラクションも、肩がぶつかった際の文句に対しても、変えることと変えないことは同じです。
好き合って一緒になったはずの夫婦はどうなの、と問う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、夫婦でさえ、いや夫婦だからこそさらにこの考え方は大切なことです。
変えることは、
・自分を傷つける自分を、自分に寄り添う自分にすること
・報復しようとする自分を距離を置く自分にすること
変えないことは、
・自分の味方である自分
・問題の良し悪しを即判断しない
こうやって変えることと変えないことが実践できるようになると、自分がその時々で感情を選択していることが実感となって理解できるようになります。
「怒りたくないけど、怒ってるの!」
という方には、こう申し上げます。
「大変ですね。つらいでしょう。でも、怒りたくて怒ってるんですよ」
私たちは自分の感情を“客観的”という言葉のもとに脚色していることがよくあります。それが、正当化の元にもなったりします。少し上で、変えないことの中に「問題の良しあしを判断しない」と突然書いてしまっていますが、どんなに正しいと感じることであっても、多くの人が絡んだり、あるいは家庭のように深く付き合っている人同士では、それぞれがそれぞれの正論と(信じたくないかもしれませんが)それぞれの良心のもとに行動しているものです。ですから、自分がつらい思いをしたことに寄り添うことは大前提ですが、ここに変に正しさの結論を導くことは、自分が自分に寄り添うことによってこれから蓄えていくはずの自信を削ぐ考え方でもあるのです。
N党のボスが騒ぎを起こしています。私は彼のことも彼の団体のことも知りませんが、NHKの言う「公平・客観・中立」なるものが本来ありえないという意味では、養老先生の言葉に賛同している身です。
世に客観的という世界はありません。別の見方があるのみです。
少なくとも、ここではそう考えることをお勧めします。
なぜなら、大所高所から見下ろすのではなく、自分が少しでも楽に生きるために他の解釈を探ればいいことになるから。
・・・というくらい気楽に生きてみましょう。
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