信じられる世界、信じられない世界

日々の棚卸

世の中は、ある前提で動いています。

ここで言う前提とは、(北半球では)太陽が東から昇るといった自然現象のことではなく、もう少し人為的なものをさします。例えば、学校や会社、家族とは、人が集まる、一緒に暮らす場所で、そこでは人と人の間に軋轢が生じることもあるけれど、決定的なダメージを人が人に与えてしまうことは“基本的には”ない、ことなど……。

「それは甘い。人間というのは互いに行き着くところまで傷つけあいながら、それでも同じ人の輪の中で生きていくものなのだ」という方もおられるかもしれません。行き着くところまで、というのがどの程度を指すのかにもよると思いますが、それはそれで一つの考え方だと思います。もっとも、20世紀の終わり頃から、行き着くところが世の中で意味するレベルは少しずつ柔らかい方向へ変わってきているようですが。

いずれにせよ、人と人の関係性の中で温もりとか信頼感を醸成することと並行して行き着くことができる限界、つまり許容できる範囲=許容量があるのは確かでしょう。

 

今年は桜の開花が例年より早いようで、毎年恒例の夜桜散歩の季節が過ぎてしまわないように気をつけなきゃ、と天気予報をいつもよりまめに見ています。日曜の夜のひっそりとした川沿いの遊歩道に沿って植えられた桜並木は、夜空の藍と花びらの淡いピンクのコントラストが艶やかにして鮮やかで、まだ少しばかり寒さが残る中を缶ビール片手に歩くと妙にホッとするので、花粉症をこらえて小一時間ほど年中行事のようにいそいそと出かけていきます。

散歩中、これまでの自分の変化について意識します。

今の生活を振り返ってこれからどう歩いていこうとおセンチに浸るうち、虚ろな季節、憤りの時間、過去への旅、感傷に埋もれた夜、何でもない日々をかみしめる毎日、そして、当時の自分の許容範囲を超えて起こった原家族の出来事にどうしようもなく追い詰められて苦しかった状態と、その裏側に置き去りにしてきた大切な時間へと感覚が移り変わっていきます。自分の体に訪れる感覚は年ごとに異なりますが、その変化が生きる力となって自分の中で見守り続けてくれていることを感じられるという点だけは変わりがありません。

 

今、世間を騒がせているコロナもそうですが、世の中は予測のつかない変化をおこします。その影響を受けた経験がないうちは、テレビやパソコンのモニター越しに自分とは関係ない世界だと思い込んでいますが、一度身近でショッキングな出来事が起こると、以降は誰もが自分事として受け止めざるを得なくなります。上述の私のケースによらず、会社の倒産や離婚、借金漬けの生活に、家族内の暴力やいじめなど、ひどい例はいくらでもあります。身体障害者の肉親を持った知り合いが、世の中に対して腰が引けながら働いているとぼそりと伝えてくれた時、某クリニックが開催するミーティングで知り合った女性が、父親からの性的を含む暴力で受けたダメージで世の中自体を信じられなくなった体験談を耳にした時は、とても共感したものです。そういう意味では私たちが普通と勝手にイメージしている人など、本当はいないのかもしれません。

 

予測のつかない変化に影響を受けて苦しむ自分が、もう一度自分自身を生きていることを実感できるようにする方法はいろいろとあるものです。このブログでも紹介してきましたし、巷には納得できるかどうかは別として、書店にはその手の本が並び、あちこちでセミナーが開催されています。どれが良いかは人それぞれなので、自分に合うものを選んでいけばいいと思います。

しかし、そういったいくつも存在する方法を試そうとしないために、変化できない人が一方に少なからずいます。

本人は、変化できない、ではなく変化する必要はない、変化するのは自分以外だ、と思っています。自分もそんな時期があったし、そういった方法を信じていない、というよりそれらを提唱する(今の私を含む)専門家のことを、自分を騙す相手として究極の猜疑心とともに見ているのだから、試そうとするはずもありません。

私は、そういった人々にお会いするたび、妙に共感してしまったものだし、今だって共感してしまいます。

私がカウンセラーの資格を取った機関の開催者は、私のことを「とても面倒くさいやつ」と苦笑交じりに言ったことがありますが、案外こんなところも理由なのかもしれません。

だからでしょうか。今は乞うほどに伝わることを願ってしまいます。

本当に必要な、そして最大の変化はそこなのだ、と。

きっと彼ら彼女らにとっては、この最大の変化を受け入れたとして、その先を信じられるのか、また別の状態で同じ世界が待っていないか、という隠れた恐怖が心の奥底に根付いてしまっていると思います。また同じショックを受けたら、おそらく自分は生きていられない、少なくとも何とか残っているはずの正気を保っていられない、と。だって当人にとっては、身も心もこれ以上動かせない、というところまで努力してきたのだから。当人なりにそれこそ“意識”の続く限り、目一杯あがいたけれどうまくいかなくて、「結果」が受け入れがたいほどひどいと、良い悪いのレベルを超えて、何も信じられなくなってしまう。その「結果」は、その努力とは、ほんとは何も関係ないことに思い至らないままに。

本来、求める結果は、テストの点数でもなければ、昇進や給料の多寡、友人の数や家の大きさなんかではないですよね。それらは最短にして最も安定して、あなたと大切な人々が「楽に」「幸せに」暮らすための手段・ツールだったはず。テストの点が上がらない子供は、それが自分より親の「幸せ」を兼ねられていない、今後もかなえられそうもないという感覚に、自分を否定し、弱っていきます。

 

私の両親に目を向けると、第2次大戦で敗戦した影響で極貧の生活を送ったそうです。当時ほとんどの日本人はそうだったと思いますし、友人のお父さんと話をしたときも、みんな貧しかった、とあっさり言われました。あの頃の日本人はきっと、極貧が絶望を呼び、物理的のみならず、アイデンティティも徹底的に否定されたと思います。あの時代を生き抜いてきた祖父母は、何をやってきたにせよ凄いと素直に感嘆します。

だから、私の両親の世代は二重の意味で目指す豊かさがあった。

一つは物理的な豊かさ。モノがそろっていること。こんなジリ貧は絶対に嫌だ、と誰もが思っていたでしょう。モデルは米国。

もう一つはものの見方や考え方の豊かさ。これは人のあり方とか世界観と言ってもいいでしょう。それまでの日本が培ってきた文化、言い換えれば人の関係やあり方を徹底的に叩きのめされてしまったと感じた人は多かったでしょう。これに“代わる”何かを求めるのも当時としては仕方がなかったかもしれません。モデルはやはり米国、そして欧州。

そうやって何十年か過ぎ、モノがあふれ、ある種の洗練された世の中が登場し、日本という国の認知度が向上するのと反比例するかのように、自分の存在の希薄さに追い詰められた人々が目立つようになってきました。求めた2つの豊かさは自分という存在自体をも満たしてくれるはずだ、という自分でも意識していない思い込みがあったのかはわかりません。そう考えると、1960年以前に物心ついた人々は皆、この戦争の影響を大きく受けているのかもしれません。もっとも、今を生きる全ての人が少なからず影響を受けてはいるのでしょうが。

 

両親と戦争の影響の話は、次のことをクローズアップしているように感じます。

つまり、時代を問わず私たちは、伝統的な(単に“古い”と言い換えてもいいでしょう)やり方・あり方と、新しい時間へのキャッチアップを同時並行して体得していくことを求められている、という、身を割かれるようなトライアルを常に課されている、ということです。

神様仏様アッラー様(?)、ともかく日常に根差していた宗教のような“人知を超えて”信じる対象は、国民国家の登場とともに生活の背後に隠れるようになりました。

そう考えると、自分に納得して生きる上で、信じることの意味がもう一度問われてはいないでしょうか。

信じることとは、与えられるのではなく、自ら体得することの中にあらわれるのではないか、と感じるのは私だけでしょうか。

お前は自分が納得できたからそう言うんだ、というかもしれません。

一見、そう見えるのもしかたありません。

そう言われる方を含め、一言付記させていただきます。

そこに一歩を踏み出す前に、予感がある、と。

予感は、自分と大切な人々を感じようとするプロセスに内包されます。

大々的に、ドカンと訪れるものではないと思います。

ロマンティックでもないし、感動的でもない。

ある時、ある瞬間、小さく(私の場合は“チクリ”という感じだったかな)、あれ、という感じが多いように思います。

だから、今、私を、周囲を、世界を猜疑の目で見つめている方へ。そこにいたいかどうか、それだけは自分に対して真摯に問うてください。いられるかどうか、ではなく、いるしかないのでは、でもなく、「いたいかどうか」という本音を問うのです。

そして、世界を操ろうとしないこと。

自分が選択した中に、大切なこと、必要なことは自然に提示されます。ここは、それこそ気づいたら与えられているものです。

その時世界は、自分に同化します。世界と自分、ではなく、世界の中の自分、ということを当たり前に感じられるようになります。

それが信じられる世界だと思います。。。