自分の長所について、いつ頃からか悩まなくなりました。
そもそも長所とは一体何でしょうね。
まずご自分の意見・認識を新たにして、以下をお読みいただければと思います。
カウンセリングやメンタル医療を受けていると、自分の長所を挙げてみるよう言われることがあります。私自身、そう言われましたし、反対に相談で宿題にしたこともあります。
この分野で言われることは、自己評価と列挙できる長所の数は関係があるということです。セラピストの西尾和美さんは、ロングセラーの著書『今日一日のアファメーション』(ヘルスワーク協会)の中で自分の長所について、「もし10以下しか考えられなかったら、あなたはまだ、本当には自分を知らないか、または自分を拒否しているのかもしれません。良い点を20以上あげられるようになれば、自己評価が上がってきている証拠です」と述べています。
なるほど、そんなものなのかな、という感じで今は受け止められるのですが、初めて読んだ時には、全く長所を挙げることができず、何とかひねり出した1つ2つも、これは本当に長所と言っていいんだろうか、と落ち込んだものでした。自信がぼろぼろになって吹き飛んだまま空意地を張っていたような状態だったので、そんな提言を受けて考えたところでまともに答えられるはずもありません。挙句、自分を取り戻すためにいろいろやってきたけど、やっぱり駄目なのかな、と自己嫌悪に陥ったことを覚えています。
もっとも、私の場合には、こう言った取り組みに目を向けるようになったこと自体が奇跡的であり大きな進歩でもあって、まだそこに至るステップを踏みはじめた段階だった、ということもできますが。
今日ここでお話ししたいのは、この長所とその数についてです。
実はあまり捉われない方が良い、と申し上げたいのです。
長所というものは、はじめから自分に備わっているものばかりを指すのではありません。
その時々のメルクマールとして、カウンセラーがそう問うてみたり、クライアントが自分に確認するのはいいでしょう。しかし、これはそれ以上でもそれ以下でもないと思うのです。長所と短所は、自分が持っているものの出方、使い方によってどちらにでもなりうるものだからです。だからこそメルクマールになるのですが、あまり固定的に受け止める必要はないと思います。
周囲からの評価がなまじ良い時に、自分の長所らしきものを列挙したとしても、それは少々脆く、不安定になります。他者の評価によって得られる自信とそれによって担保される長所というのは、時によっては重要ではあるのですが、場所が変われば意味が薄れてしまう可能性もあるからです。
ではこれは、長所として数えていいのかよくないのか。土台、こんな問いをしてまで長所というものを見出していくことは、大した意味をなさないと私自身は考えています。
長所は、それを自分自身があるきっかけのもとに自ら長所と認識して、自分に伝え続けることができるようになると、日常の中で有効に役割を果たしてくれる、それがまた長所として革新をもたらしてくれる、というスパイラルを描いて意識づけられるものだと思います。そういう意味では、自尊心や自己肯定感と似ています。少し別の角度から言えば、周囲がどうか、ではなく、自分が自分の選択によって自分とともに生きていくうちに、良い方向に実現されていくものを長所と呼ぶのではないでしょうか。
長所とは、そうでないと思っていたり、実際にそうでないはずのものを、長所にすることでもあるのです。先に、はじめから自分に備わっているものばかりを指すのではない、と記載した所以です。裏を返せば、長所と思っていたものを短所にしてしまう可能性もまたあるわけです。
私たちはともすれば、欠点として自分が認識する多くの自分を抱えています。
情けない自分、ギスギスした自分、みっともない自分、惨めな自分、不躾な自分など、数え上げればきりがありません。長所が増えるということは、このような自分が減っていくということではなく、それらの自分に対する愛着性が変化するのです。
いずれにしても、先に欠点と呼んだその認識が正しいのか、という疑問を自身に発するきっかけをどこかでつかむまでは、そういった欠点としての自分を意識の底に感じ続けながら、ひたすら遠ざけようとして目を背けようとするし、そのための方策はこれまた枚挙にいとまがないことは、これまでにも拙ブログにて述べてきたとおりです。アルコールや薬物に逃げたり、ひたすらひきこもってテレビを見ていたり、思い切り自分に攻撃的になったり(抑うつ的)、他者に攻撃的になったりして、遠ざけたはずの欠点がさらに強化されて自分に取り込まれていくメカニズムは、それを知るまでは「なんでこんなに苦しむんだ」となるでしょうし、知ったところでそれだけでは頭の整理にはなってもそれで終わりで、決して解消されるわけではありません。
その自分、なぜできたのでしょう。
成り立ちを説明できますか?
よく言われるように、生まれたばかりの子供がそんなに人や社会を恨んでいるわけはないのだから、何が起こってそうなったのかあなた自身が知っているでしょう、という通り、大方は家族の中に問題の芽を見出すことができます。
そういった自分であることで、あなたを取り込んでいた家族、父親が、母親が限定的にしか機能せず、あなたが心の領域や親の人間関係、ひどい時には性の領域までサポートする羽目になって、何とかそんな家族(精神医療では“機能不全家族(Dysfunctional Family)”といいます)を機能させて、あなた自身をも生きながらえさせてきた。
私の知り合いの女性は親の借金を返すために中学卒業後(彼女は中学校でトップ3に入る成績だったそうです)に夜の業界に飛び込んでいきましたし、自分の体を痛めつけるほど努力して勉強や運動で成果を出そうとしたり、大金を稼いで世間の物覚えをよくしようとする例など、それこそ枚挙にいとまがないことはよく知るところです。
前回のブログでも述べましたが、その努力の果てに望む結果が得られなかったとき、つまりある種の虚栄心は満たされることがあるにしても、自分も大切な人々の幸せも達成できていないことがはっきりするにつれ、愕然とするほど自信を喪失するものです。
そのプロセスで身にまとった先の欠点としての自分…。
これってほんとに欠点なのでしょうか。
あなたが心に負った傷、
息をすることさえ苦しく感じさせる胸の中の巨大な重石、
他者の評価では目も当てられない自分という存在、
……
彼は、彼女は、『立派に』闘って生きてきたのではないでしょうか。
確かに目的は達せられなかったかもしれません。でも、周囲から見れば決して褒められたものではないプロセスだったりHow toだったりしたとしても、自分を超えて何かのために生きようとした証ではないでしょうか。体を張って、心をさらして、確かに明後日の方向を向いてしまっていたとしても、全力で戦って、勝ち取ることができる、と思って生きてきたこと。自分はある意味二の次にして、自分以外の誰かの幸せを願ってやってきたこと。
ねえ、皆さん。この場なら、この発言を許してもらえるように思うのですが…
こんなに格好良くて素敵な人、いませんよ。。。
自分と重ねているところが、ちょっと気恥ずかしいですけどね。
自分が陥った欠点と称する世界のこと、そこからもう一度自分と世の中を信じて生きていこうとして、発想や物語を転換・獲得していく中で体得するいくつもの変化、それをそうと気づかないままひたすらこなしてきた自分、これらは皆、間違いなく自分の長所足りえるものですし、あらかじめ備わったものとして思いつくものではありません。もちろん、そういった力は内在化されているから、と言えなくもありませんが、筑波大名誉教授の村上先生が、遺伝子はそれ自体が遺伝的に働くわけではなく、オンするかオフするか(その遺伝子が機能するかどうか)はその人の生き方によって決定されると言われている通り、内在化された力を発揮したのは他ならないあなた自身です。
日々、瞬間、一つずつ、自分が変化することによって、望む選択を増やしていきましょう。少し突飛ですが、それこそが、過去も現在も自分を形作っている一つ一つを長所に変えていく魔法のカギだと思います。
最近のコメント