そこにいることがどうにも苦しくて仕方がない。
そんなとき、逃げ出したくなることは誰にでもありますよね。
理不尽な職場、家庭内の対立、学校のいじめ、隣近所のトラブル…。
どこででも起こりえる、ちょっともうこれ以上は無理、という状況。
雨が降ったらまた明日とでもいうように、おいそれと環境を変えるわけにもいかない。
「まいったな」
そう呟きながらも、自分が選択したその場所に身を置く。
そう感じる人は健全なのだと思います。
はっきりそう感じて、でもメリットとデメリットを天秤にかけて、仕方ないな、とそこにいるのであれば。満足には程遠いかもしれませんが、今はともかく先をあきらめたわけではないし、わかっていてやっていることだから必要以上に自分が傷つくことはない。自分を守るという意味では、何とか最低限の状態は維持していると言えなくもありません。
解決策と呼べるような前向きなものではありませんが、常に最良の状態を保てるとも限らない現実でも自分を保つという上で、覚えておいて損はない考え方です。
…と言った矢先ではありますが、ある種の追い込まれた状況下でそういった冷静さ・達観した視線が微塵も得られないようなときもまたあるものです。何とか自制していた感情が暴発し、理性を見失う。自分自身が何か別の力に『絡め取られた世界』が全てになってしまい、どれほどあがいても状況がまるっきり変化する気配さえない、そんなときのことです。
普段なら、『絡め取られた世界』の向こう側に、朧気ながらなんとかなるんじゃなかろうかというささやかな“希望の影”ようなものが感じられるはず。なのに、冷静になろうとしてその場に留まっても、動かなきゃと自らを鼓舞して行動しても、気の持ち方を変えようと深呼吸しても、何かで遮られてしまったように、“希望の影”はうっすらとした輪郭さえ見ることができない。そして、無感覚に陥るような灰色の日常がこの先も続くような錯覚から抑うつに陥ってしまう。
そこまで追い詰められている時、要するにどうしようもないと感じられるのであれば、その『絡め取られた世界』の外側に、もう一つの壁で作られた世界が本来見えるはずの“希望の影”を遮っていないか疑ってみてください。あなたを覆う日常というドームの壁を蹴破ったら、もう一つドームのような壁がありました、というイメージ。
私たちは、そう問われない限り、いつの間にか目に見える世界が全てと思って日々をやり過ごしています。過ぎていく日常とともに本来なら消えていくはずの、一時は思い悩みながらも何とかやり過ごしたはずの時間が、もう一つ外側のドームの特殊な形をした壁によって、まるで川の淀みにたまった廃棄物のように心の中で処理されることなく溜まり続けている。
これで先へ進むというのはなかなか難しいものです。
この『絡め取られた世界』、いったいどうやってできたのでしょうか。
『絡め取られた世界』のもう一つ外側の世界自体は、あなたが幼いころから形成されてきた感覚がイメージとして築き上げたもので、本来誰もが持っているものです。言い方を変えれば、あなた自身がどういう人で、どう生きようとしていて、どんな人間関係を築こうとしているかを決めているもので、それ自体は良いものでも悪いものでもありません。
今の環境が言いようもなく苦しくて、そこを飛び出て別の場所を求めても、その先でまた同じようなことを繰り返す人は少なくありません。もう一つ外側の世界が一回り大きなフレームとなり、あなたが受け止め、判断し、動く一連の流れを形作る世界の見え方のベースとなって、そのようにさせているわけです。
繰り返しになりますが、このドームは多くの場合、子供の頃から築き上げてきた感覚、それも体感に根差したイメージが描いた形です。これは良いものでも悪いものでもないと先述しましたが、やり過ごせるはずの時間=想いを淀みにため込むような形になっているのであれば、良いものだとは言えません。形を修正するなり、取っ払うなりすることが望ましい。
ですが一方では、その中であなたなりの人の温もりや信頼を醸成してきたのだから、世界を感じるためのドームにあなたが感じる愛着は人一倍。例え、おかしいなと疑問を感じたとしても、そこを抜け出すのは自分の一部を切り捨てるようでとても怖い。
だからつい、日常が『絡め取られた世界』になっているかどうかを問わず、その外側にある世界を“正しい”ということにして生きています。その方が当座の不安を解消できるし、いつか淀みにたまり続ける感情が(腐ってしまう前に)流れ去ってくれるだろうと思うことにしているから。
もし、日常が『絡め取られた世界』であるのなら、それが続いているのなら。
真実は正反対。
その世界にとどまっているがゆえに、自分の大切な一部が腐り死にかかっている。それが実情です。
だから、その場所を“意識して”出る必要がある。
恐怖からの脱出ともいえるし、見切りをつけて出航する(旅立つ)といってもいいでしょう。
当初、標題は「脱出よりも出航を」とする予定でした。
でも、そこには向き不向きがあり、生きてその場所を出ることが最優先なのだから、その原動力はその時点では何でもいいのです。自分を振り返ってみても、当時は相半ばする想いがあったし、頭と心(=皮膚感覚)がせめぎあって葛藤していました。
ただ、望むらくは、怖くて逃げだすより、震えながらでも構わないから、『どこにあるかわからないけれど、必ず自分のために存在している次の場所に行くのだ』と何度も胸の内にささやきながらであるれば、その方がいい。
嘯くという言葉はこういう時のためにあるのかもしれません。
実際、先に述べた通り、外側にある世界に見切りをつけて(どこにあるとも知れない)新しい場所へ向かおうとするときには、見切りをつける怖さ(=脱出)と、新しい場所という目標の獲得(出航)の双方が自分の中にあって、葛藤しているものです。
葛藤しながらも、自分の味方になって自分に寄り添い続けていると、そのうち自分がどんな世界にいるのか感じられるようになります。冷静にはなれないかもしれないけれど、冷静になれないならなれないなりに、そこは自分がいる場所かどうかを感じるようになるわけです。
いる場所だと思えるならいればいいし、ここは違う、無理だ、と感じるなら、心身の危険がないことを前提にワンテンポおいて、その間に目標を見据えて、出て行けばいい。
いずれにしても、どこにいても、世界は自分の感覚が作り上げていくものです。
だから、ドームの形を整え直すのもまた自分の感性次第なのです。
セクハラ・パワハラ・モラハラとハラスメントのてんこ盛りのような日常は、あなた次第でどこにでもあらわれます。
決して会社の中だけじゃなく、隣近所や学校も同じこと。
実は家庭の中が一番危険かもしれない。
もっとも信頼関係の上に成り立っているはずの場所でそんなことが起こることが、日常だとするなら、世界を信じられるはずもない。それでいて、頑なにその場所にしがみつこうとする。
それでも、世の中がどうであろうと、周囲がどうであろうと、本当に、ほんとうに、どうしようもなくこれは無理、と思った時がきたとしたら、
そこから自分のための新しい場所へ向けて一歩踏み出しましょう。
そこから自分のための新しい場所を求めて歩き出しましょう。
今日の話は、あまり救いがないかな、と思いながら書きました。
まるで突き放しているようだと言われても仕方がないかもしれません。
そう感じられたなら、申し訳ありません。
望むらくは、自分のための場所を見つけ、あるいは作り出し、獲得することができるというスピリットが、必ず誰しもの中にあることを伝えたかった。
不満、不安、恐怖、絶望、そういった感覚とこのスピリットは表裏一体の、それでいて互いに認識じづらい感覚です。スピリットと聞くと、勢いをいめーじするかもしれませんが、決してそういうものばかりではありません。自分を受け入れていった先に、静かで、揺らぎの少ない、静かな推進力が確実に働いて、時には縮こまりそうな自分の背を押し続けてくれる、大切な想いに基づいた力を感じられるようになります。それが、ここでいうスピリットです。
何度でも、一度は愛した場所、自分が選んで決めた場所、その大地を蹴って自分の居場所を、とことんまで求めましょう。欲望を否定しないで、求めるものを否認しないで、自分で自分を打ちのめしてしまわないで、自分の感覚を信じてください。絶望を信じるのではなく、絶望している自がいることを信じてください。そんな場所にいる必要はないのです。
仮に今はうまく心が動かないとしても、いつか、出航するのだ、としっかり意識しておく、そしてその時が来たら出て行くと、実はかつていた場所もまた、少し時が流れたあと、あなたの辿った軌跡となって懐かしい想いを醸してくれるようになります。なぜかというと、その時どんなんに苦しかったとしても、あなたが自分を無下に否定せず、その場所で自分を大切に生き抜こうとしてきた感覚が、やがてしっかり自分自身でいた記憶を刻み付けて、その時感じた風景、匂い、人の関係を、自分自身を肯定したのと同じ想いの中に位置付けてくれるからです。
自分自身であること、自分を見捨てないこと、それは単に今を大切にするだけでなく、未来をも大切に築き上げる一助となることがわかっていただけると思います。
さて、と。
週末だ。
またビール片手に桜を見に行くか。※
※その後の自治体要請で自粛しました。。。
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