私たちは時を吸収して生きている

日々の棚卸

志村けんさんが逝去された。今時70歳というのは若すぎる死だ。

人は様々な原因で他界するけれど、このウイルスが自分の死の原因になると予想した方などそうそういないと思う。

謹んで哀悼の意を表します。安らかにお眠りください。

 

このブログを書いている今も、TVでは特番が組まれ、ドリフターズの面々やよく共演していたタレントが顔を見せて思い出を語っている。特にファンというわけではなかったけれど、土曜の夜、チャンネルあわせると、ひょうきん族と視聴率を争っていた頃の変だけど元気なおじさんの姿が目に飛び込んできたことを思い出す。彼をブラウン管(!)や劇場まで足を運んで見ていた人々は当時の私も含めて、同時代の雰囲気に包まれ、同じ時間の中で笑って泣いてしらけて(!!)、また明日を迎えた。

何の変哲もない日々もあれば、つらく哀しい時間もあったはずなのに、今もあの頃の記憶が思い出されるということは、あの頃の時間は私を形作る一部となって吸収され、今も私の中で息づいているということだ。

 

随分遠い記憶になった子供の頃のこと、たった一度だけ親に連れていかれた葬式での風景が蘇る。

おじさんやおばさんたちの顔があって、皆が何か神妙な面持ち。

違和感を感じたわけじゃない。

でも意味がよくわからない。

皆が悲しい顔をして、それを振り払うようにお酒を飲んでいた。

今ならよくわかる。

皆、同じ時間を同じように体の中に吸収して、自分の一部を無意識の世界で共有していて、それが物理的に失われたことに悲しみを覚え、互いに共感していたのだ。

肉親の思わぬ死を経験したからか、あるいは単に歳を取ったからか、他者の死というものに、そして過ぎ去る時間に敏感になったと思う。

 

この世に生まれた私たちは、いつか必ず死を迎える。

この世に生まれたという過去があって、やがて訪れる死という未来がある。

誕生という過去から、消滅という未来へ向かって流れる“時”の流れに運ばれている、という人がいて、

消滅という決まった未来から誕生という過去へ向かって流れてくる“時”を感じ続けている、という人がいる。

どちらが正しいのか、他に流れ方があるのか、わからない。

でも、たとえどんな流れ方をしていようと、自分と巡り会った“時”は、自分に吸収される。それは確かだ。自分という存在を通って必要な“時”が蓄積され、その積み重ねが内面を形作っている。

人の死は、そんなことを気づかせることがある。

人の死に、そんなことを気づくことができるようでありたい。

それは、私たちが総体として生をつなぐことの一助であるような気がする。

 

素直に、素のまま、自分のこれまでと向き合い、吸収された“時”を感じ続けると、その都度、その“時”の中で生きて世界を感じた自分と出会い続けることに気づく。

その“時”の感覚をとにかく、いついかなるときも、受け入れ、愛してほしい。例え、どんな過去を持っていたとしても、どんな今を生きていたとしても、どんな未来が待ち受けていると感じていても、だ。

その繰り返しが続く先に、いくつもの満たされた世界を自分が作り上げていることを感じられるようになる。

哀しみ、憤り、逃げ出したくなり、自らを消してしまいたいとまで感じていた“今”は、自分の居場所そのものになる。

 

ー今回の表紙画像ー

『遊歩道沿いの花壇』