ダブルバインドコミュニケーション

日々の棚卸

私たちは子供の頃から、親をはじめとする多くの大人や友達と“触れ合う”ことで、人の関係がどういうものか、自分はどう振舞うことが必要か、などについて学んでいます。学ぶと言っても、近しい関係の場合には言葉や行動よりもその背後にある動機のようなものを察知して感じ取り、自らの皮膚感覚にしみつかせる場合もあります。

見聞きする言葉や行動が必ずしも良いものばかりとは限りませんが、理想的にはそうやって、自分にとっての適切な言葉や立ち居振る舞いの選択、人と人との信頼感とかモノの見方を体得し、それをもとに自分の足で人生を歩いていく基礎をつくりあげるわけです。

 

“触れ合う”、と書きましたが、一般的にはコミュニケーションと表現されることが多いと思います。コミュニケーションという言葉は、“触れ合う”という表現に比べていささか抽象度が上がるというか、温もりのある関係以外の機械的な要素まで含んでいるように感じられます。コミュニケーションという言葉で表される人と人との関係性の中で、こじれる部分があるとすれば、それはこの“触れ合う”という表現にくくられる部分なのではないかと思います。

 

呼び方や定義をどうするかはともかく、これらの表現は意志疎通をはかることが目的であることには変わりありません。以前にも書きましたが、そこにはバーバル(言語・言葉そのもの)とノンバーバル(身振り手振りや声音、見た目など)の双方が伝達のツールとして絡んできます。

「面と向かった話ならそうだろうけどなあ」

メールやラインでコミュニケーションをとることが増えた、ここ四半世紀(?)ほどの文化の中では、そのように思われる方もおられるかもしれません。

いえいえ、そうではないですよ。

友人知人なら、その文面の向こうに、彼・彼女の普段を思い描きながら、解釈していませんか。見知らぬ相手だったとしても、その言葉の意味するところをこれまでの体験的な解釈によって受け止めていたりするはずです。あるいは、言葉の裏側に読み取られるものを自分の世界観で妄想してしまうことだってあるでしょう。つまり、バーバル(文字・言語)が全て、ではないということです。

 

私たちの発する言語、立ち居振る舞いは多岐に渡り、人によって随分異なります。受け取り方もまた同じです。

7つの習慣をも持ち出すまでもなく、人によって是とする解釈を忌み嫌うかのように受け取る人もいれば、その逆のパターンもあるものです。

 

人それぞれと言えばそれまで。

でも、何故でしょう。

良かれと思って伝えたことが悪く取られる。

言われたことやある特定の振る舞いがやたらと耳に残って不快だ。

他の人はどうもそうでもないらしいのだけど。

 

言葉は人に想いや考えを伝えるためのツールの一つ。

どう伝わるかは受け手に依存します。

そして運用次第のところもある。

 

コミュニケーションが苦しいから、何とかならないでしょうか。

そう言われて問い返したことがあります。

何ができるでしょうか。

よく言われている言葉ですが、

『他者と過去は基本的に変えられない。変えられるのは自分と未来』

いつものようにそこからいきましょう。

 

一度、振り返ってみてください。

もしかして、

正しいことを、思い切り拒否する表現で伝えられてきたりした

正しいことを、伝えてく裏側に怒りや恨みをの匂いかぎ取ってしまった

正しいことを、共感されるより常にプライオリティ高く躾けられた

などということはないでしょうか。

 

伝えることとその時の態度や雰囲気が大きく異なる時、あるいは言っていることが別の時に言っていることと相いれない時、ダブルバインド=二重拘束が生じていると言います。ある理屈(拘束1)に則ったコミュニケーションが、それと相反する理屈(拘束2)をも同時に伝えることで、特に弱い立場にある存在がその受け手になることで障害をきたしたりします。

「お父さんはとても素敵で大切な人よ」という母親が、同時に毎日のように夫に対する恨み言や怒りを子供にぶつける時。

「君を愛している」と言う恋人が同時に別の女性とも同じ関係にある時。

躾と称して憤怒の形相で壁にたたきつけられるほど親が子供を殴りつける時。

繰り返しになりますが、要するに本来“相いれない”二つの価値をひとくくりにして伝えることで相手を混乱させ、ひどいときには心身に取り返しのつかないダメージを与えてしまうような矛盾するコミュニケーションを指す言葉です。

 

ダブルバインド=二重拘束は、世の中の随所に潜みます。

その影響をダメージとして受けないためには、もう一段階上にたって俯瞰することができるようになる必要があります。そのきっかけであり、またプロセスでもあるのが、いつも申し上げている自分自身を受け入れることです。何だか面倒くさい気もしますね。

ただ、一見、嫌なことのように思えるかもしれないけれど、惻隠の情や一種の突き放した思いやりの表現のように、見えないところで気を遣う親切もある意味同じコンテキストで語ることができます。もっとも、こちらはもう少しやら若い雰囲気であることが多いけど。

知人同士の衝突を止められなかった同僚が「どうせ止められなかった俺が悪いんだよ」といじけているときに、「そんなの君がどうこうできることじゃないだろう、自分のせいにするなんてバカじゃないの」なんて、ちょっと棘っぽい言葉で相手の心境を楽にしてあげようとするときにはダブルバインドという言葉は使いませんが、同じと言えば同じですね。

 

引き付けの法則なんていうけれど、

それは別に何か特別な世界のことを言っているわけではなくて、

自分が口にする言葉が、

相手の態度の受け取り方が、

その表情や立ち居振る舞いが、

注意を払っていることと適当に流していること、の選択やバランスが、

そして何より、それらを日々行っていることを無意識のうちに受け入れていない自分自身の生き方が、

それに相当する人と環境とをひきつけ、

今のあなたの日常と世界を形成しています。

そんな時、過去に常態としてあったダブルバインド的なコミュニケーションが世界観を歪ませていないか、振り返ってみることをここでは提案しています。自分自身で気づけなくても、そうやって世界は常に、自分が世界をどう見て、どう感じているか、を見せ続けてくれているのだから。

 

だから、正しさなんて、本当は強制されるものじゃないんです。

イデオロギー的な教えに歪みがないか、日々感じた出来事の棚卸をして、そこに凝り固まることなく、自分にとっての楽な世界を思い描いてみましょう。

落ち込んだなりに、ちょっとふくれっ面したなりに、いじけたなりに、それでも密かに愉快なこと、小さくニマッと笑えるようなこと、探ってみよう。

世の中、よくできたもので、案外自分の身近に探すものが見つかったりするものですよ。変化は、そこからです。

ー今回の表紙画像ー

『ビル街の宵闇空』