恋愛ミニ説教

日々の棚卸

COVID‐19の影響が深刻さを増しています。

皆様、ご家族は大丈夫ですか。お一人の方、一人だからと言って、油断されないように、健康に気を付けてください。

こういった世情に注意すら払えないほど、過去にも未来にも絶望していた頃の私のような方々、もし読んでおられるようでしたら、どうかこの難局を無事に乗り越えてください。今がどれほど苦しくても、生きている限り、幸せの可能性はなくなりません。今が突然そうなったわけではないように、未来も一つ一つの積み重ねの先にあります。焦らず、ゆっくりと。

そうでない皆様も、こんな折、来し方行く末に想いを巡らせる機会と思って、拙ブログにも目を通してみていただければと思います。

 

さて、軽く本題へ。

 

ほとんど全ての方が一度はする恋愛。

相談を受けていてもたまにあります。…たまに、ではないかな。

 

相談を受ける時、恋愛の話がある部分でアディクションに陥っていたり、危険な状況にある場合には、できるだけタイムリーにサポートするようにしていますが、一般的な“こじれ”や“すれ違い”は、ただあたたかく見守るよう心掛けています。きっと「ほんとにこいつカウンセラーか」など頼りない奴と思われているのでしょうが、結局のところそれが本人にとって一番よいことだと思うのです。私自身、そういうときは“いわゆるカウンセラー”として接しないほうがいいと感じていますし。

 

メンタルヘルスとかセルフヘルプグループなどでは、恋愛というより、“愛”にフォーカスして自分を含めた人の関係性を学ぶことがしばしばあります。

“愛”とは何か、

大切な人へのあなたの“愛”は本当に有効なのか、

自分を愛することの意味は、など。

こういった関係性の背後に、あるいは上位に、理屈とか意志を超えた“何か”を信じて(キリスト教徒の場合にはこれが神様になりますね)、そこから導かれる自分のあり方、自分との付き合い方を“愛”を媒介に洞察し、日々の生き方を自分なりに実践していく、というものです。

 

私たちは、

自分を扱うように人を扱います。

自分と接するように人と接します。

自分を好きであるように、人を好きになります。

自分の嫌いな部分が多ければ、人とつながれなかったり、つながった人を嫌ってばかりいます。そんなに嫌なら、そんなに苦しいなら、離れていればいいのに、と思うのだけど、それは傍から見た感想であって、当の本人にとっては体中に浸透している、そして唯一無二の親しいつながり方。しがみつきながら、文句を言うのも、怒りをぶつけるのも、そこに自分を受け止めてくれる存在を見出しているからで、自分にとっての唯一の表現方法なんだろうと思います。誰にも責められる“いわれ”のないもので、でも続けているとどこか通常とは異なる軋みが出てきて、最後は修復が困難になってしまう。

 

私を含め、皆さんがいくつであろうと、これまでしてきた恋愛と、これからする(かもしれない)恋を思う時、そこには色濃く自分のあり方が反映されます。例え結婚していても、恋に落ちるときは落ちますしね(ということにしておいてください(笑))。

 

これを読まれているあなた

今おいくつですか?

これまでにどのくらい恋愛をしてきましたか?

過ぎ去った恋を、楽しかったと懐かしく思い出せますか?

 

恋愛は後から振り返って幸せを感じるためにするものではないけれど、

後から振り返ったときに、どう思い出せるか、どう感じているか、は

実はその人がどこまで納得のいく人生を送っているかのバロメーターの1つだと思います。

この領域に心理学やら何やらの理屈を当てはめて語るのは野暮ですが、それほどずれてはいないのではないでしょうか。お恥ずかしい話ですが、私も小さなものから大きなものまで多少経験してきて、確かにそうだなと感じます。

 

ところで、以前“ひとかど”の人物になる話をしたことがあります。

https://nakatanihidetaka.com/whoami2/

“ひとかど”の人物。世間から“認められた”人、ということですかね。

そういう自分を目指している時とそうでない時とで、落ちる恋の質は異なると思います。少々勇気がいる発言ですが。

“ひとかど”かどうかの前に自分が求める何かがあって、よほど高い志というか心の領域が先に立って、その上で他者の評価を求めるのであればよいのですが、何かの基準に自分を合わせようと躍起になりながらそのことに気づかないまま生きていると、ある種の思考は鋭くなるけれど、感動や弱さ、気持ちの揺れなどを自分の一部として認める余力が乏しくなる。とても頑張って、へとへとになって、最後には何で誰も自分のことをわかってくれないんだ、というあのパターン。

世の中、生き方の選択肢というのは簡単に広がるものではないけれど、できれば生き方の順序を間違えないようにしたいですよね。

要するに、何を目指すにしても、最初にあるのは、そして最後にあるのも“想い”。

大切にしたい、守りたい、好き、美しい、一緒にいたい、幸せだ、気持ちいい、ほっとする、楽しい、充実している、ずっと続いてほしい。

別に恋愛のことに限った話じゃなくてね。

 

そうやって自分が感動する、その結果他者に感動をもたらす世界を見つけて、自然体で生きていけるといいですね。

そんなとき、誰かを好きになったら、誰かに惹かれたら、それは自分の宝の時間だし、それをして幸せと呼ぶのではないでしょうか。その先どうなるかはそれこそ神のみぞ知る、ですが、あらゆる自分を受け入れた状態の自由な自分が、ある時不意に落ちた恋はそれ自体が素敵な時間ではないかと思うのです。

 

すいません。今回は話が話だけにおやじ説教は避けて短くまとめようと思ったのだけど、やっぱり長くなってしまった。。。

中途半端な気もしますが、もっと長くなりそうなので、これで。

失礼しました。

 

ー今回の表紙画像ー

『朝日を浴びた(でぼやけた)近所の公園』