どんな絶望にあっても忘れないでほしいこと

日々の棚卸

突然ですが、最初に米国の刑務所のある囚人たちについてお話しさせていただきます。収監者の中で、他の囚人に危害を加えてしまったために独房に入れられる囚人の行動に関することです。

臨床心理士のテレンスリアルは、彼らとの話の中で体験談として次のように述べています。曰く、彼らはひとりきになると自傷行為に耽りだすそうです。。

腕に名前を刻む

体にかみつく

剃刀を飲む!

ネットを検索すると、自分で自分の指を食いちぎるなどという物騒な話まで掲載されています。↓

https://www.excite.co.jp/news/article/Techinsight_20160201_228908/

ここまでくるとどこまで本当かはわかりませんが、ただ一つ、いわゆる自傷癖の顕在化は、楽になるから自分を傷つけるのが理由であることは確かなようです。何も感じることができない苦痛より、自分を痛めつけている方が“まし”だということなのですね。リアルは、内面の苦痛を外に向かう行動で表す傾向が強く、トラウマ体験者に多い行動だと著書の中で述べています。

痛みは、自分が生きていること、そこに確かに存在していることを実感させてくれるということなのでしょう。多分に彼ら自身の生い立ちのせいもあるのかもしれません。

収監された囚人たちは、それまで他者に暴力をふるい、傷つける中で、自分の存在を実感してきたわけですが、根底には手首を切る嗜癖者の行為と同じ根っこを見た思いがしました。

それと何の関係があるのだと言われそうですが、私は子供の頃、指の皮や爪を削る癖があって、随分叱られたことを覚えています。時には深爪して血が流れることもありました。何か子供心に苛々している時、そういう行為に耽ってしまっていたな、と思い出すのですが、今にして思えば、これもある種の自傷癖だったのかもしれません。

本当は何かにうまくいかなかったり、そもそも不安に陥っている苦痛を、子供ながらにうまく表現できず、そんな行為に表してしまっていたのだと今ならわかります。大げさに聞こえるかもしれませんが、人は意味のないことはしないものです。

 

自分がどうでもいい存在、軽くあしらわれる程度の存在だと『自分の中で』認めてしまうことは、自分がこの世に生きている存在意義を見失うこと、あるいは存在している必要はない、と勘違いしてしまうことになります。

それが親によって思い込ませられたかどうかはともかく、それを大人になってからも、ただ嘆いているだけでは何も始まらない。いや、嘆く程度には自分があればいいのですが、そんなときには。先の米国の囚人の話ではありませんが、既に無感覚、無痛感が体現されている状態になっていたりします。

 

私たちがそういった感覚に陥る時というのを考えてみると、大方は家庭の中か職場のどちらかではないかと思います。時に、恋愛や結婚生活の破綻などもありますが、この感覚は瞬時に陥るものではなく、その時の自分のキャパシティでは解決が思いつかないようなある種の苦しい経験が長く積み重ねられてきた末に、“身に着けて”しまう独自の処方箋のようなものです。

哀しいことだけれど、ある種の必要性を認められてそこにいるはずの場所で、

不要だ

いらない

出て行け

と言われているように自分の中で思い込んでしまうとき、無感覚に陥ってしまう場合があることは仕方がないのかもしれません。必要ないと言われて、はいそうですか、とにわかに受け入れられるはずもありませんし、また普通に考えれば、余程おかしなことでもしたのでななければ、相手方のかなり一方的な指図なってしまうからです。

嘘も100万回言えば本当のことになる、とはどこかの国の政治宣伝文句ですが、人は自分が不要だと突き付けられ続けていると、あるいはそんな場所に居続けると、そう思い込んでしまいます。

本来、そんな人は一人もいません。少なくとも、当人がそうだと認めない限り。

なぜなら、そう言われ続けて無感覚になってしまうほど、そうでない自分を生きてきたはずですから。

わかりますか?

 

そんな時こそ、安全な場所を確保して、自分の中を棚卸するときだと思うのです。

例えあなたが、

どれほど自分をみじめだと思っても、

どれほど失敗ばかりしてきたと思っていたとしても、

どれほど卑劣な生き方をしてきたと思っていたとしても、

そんなことを悔いるよりもずっと前に、そんな感情に苦しむ自分を守ることができる、物理的・精神的・時間的な場所を得て、自分の大切なものを見つめ直してほしいのです。

 

何が起こったかはともかく、人によってはきっと痛みさえ感じられなくなっている時だってあるでしょう。

でも、その奥には、幸せも、楽しさも、気持ちのよさも、素敵な想いも、未来への希望も、大切な時間も、確かにあったんです。それを忘れないでほしい。それらがあったからこそ、つらくなって無感覚に陥りもするし、襲ってくる急激なショックに耐えるために無感動にもなります。

もし仮に、こんな状態、つまり無感覚で無痛感の状態である今が全てと言うのなら、

他者はいらないことになる。

自分さえ必要なくなってしまう。

…そうじゃないですよね。

つらい、哀しい、胸の奥底が抜けるほど、体がバラバラになるほどつらいのはわかります。わかると言われて、お前なんかに分かるか、と言うならそれもいい。私がそう思っているほどには、あなたのことはわかってあげられていないのかもしれない。

でも、忘れないで。人は変わる。世の中も変わる。それに合わせ自分だって変えられる。ほんの少しでいい。変化を求めましょう。変えないようにするのは、昔も今もこれからも自分は大切ということ。

今のままの自分を抱きしめて動く方向に変化して生きましょう。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『安宅海岸』