愛着障害という言葉をご存知でしょうか。
愛着、の、障害。
何となくわかったような気になるかもしれませんし、なんか抽象的でよくわからないな、と思われるかもしれません。
この言葉は精神医療などでは普通に使用される言葉です。もとは、2歳くらいまでの子供と親の間の関係性というものについて、英国のボウルビィやウイニコットといった偉い先生方が半世紀以上前にその結びつきの重要性を指摘したもので、その効用、及びそれが欠けた場合の影響について所見を述べておられます(ヨーロッパでは子供はもともと小さな大人と認識されていた)。一般書でも時々目にする言葉ですので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。愛着は本来、人のみでなく、哺乳類全般に共有される生物として重要な仕組みだそうです。
愛着(=attachment)は、大人である私たちにも大きく影響しています。
ここでいう(大人にとっての)愛着とは、私自身の言葉で言えば、『存在の当然性の感覚』を意味すると言えばいいでしょうか。
私たちが子供時代に受けた教育、躾、愛情などは、それらが適切に行き届いているかどうかに関係なく、子供時代が終わって成人・社会人になった途端、◎(=問題無し)となるわけではありません。上述の先生等の研究でも、幼児期の愛着が不十分である場合、その後の人生に良くない影響を与えることがわかっています。愛着のスタイルというものは、後述する精神科医の岡田尊司先生によれば、1歳の時のそれが成人になっても7割の人でそのまま続くといいます(『愛着アプローチ』角川選書)。スタイルと言っても赤子のように親とべったりするという意味ではなく、そこで感じた安心感や信頼を世の中に対して持ち、接すると捉えていただければよいと思います。
ここではこの“愛着”という点であからさまに不十分な子供時代を潜り抜けてきて大人になった方が、今の時代を生きるときに生じる息苦しさや、行き詰まり感に苦しんでいる現実について、述べてみたいと思います。
繰り返しになりますが、この愛着の関係性に対する考え方として、子供時代は満たされずに苦しんだけれど、大人になればリセットされて何の影響もなくなるという類のものではありません。私たちが世の中を見るためのフィルタは、子供の頃から愛着に基づいて培われた経験の積み重ねで構築されて現実の世界を映しているのだから、積み重ねの根本・大元を見つめ直しておかないと、いつまでたっても同じような出来事で苦しむことになります。当の本人は、なぜこんなことになってしまうのだ、と首をかしげながらどんどん追い詰められるメカニズムが出来上がってしまっているわけですね。
愛着の根本は、赤ちゃんがお母さんに抱っこされて、体温や鼓動を感じつつ抱擁される、究極の安心の感覚のことだと考えてよいと思います。
そして、この感覚をもとに、自己や他者、世界への肯定感を心の中に内在化させ、そう見えるようなフィルタを成長させて、社会に出て人とつながる、というのが理想的な成長のプロセスです。
私たちが、自分自身の才能や社会的評価以前に必要とする認識として、以前より『自分そのものとして存在していることが当然と思える感覚を持つこと』、とお話しさせていただいております。そのため、原風景(下記URL参照)を蘇らせることの重要性を繰り返し述べてきたつもりです。
https://nakatanihidetaka.com/yourlandscape/
この世に生まれて、あなたがこれまでに出会い、あるいは想像の世界に宿らせた皮膚感覚のうち良質の温もりをもたらすものがあるはずで、それをしっかりと内在化し、蘇らせることが、理屈から言っても経験から言っても何より大切なことだと思うからです。
先述の岡田先生は、大人である私たちが幸福を感じる生物学的な仕組み、という別の角度から、自分の存在を肯定することについて、以下の3点をあげておられます。([ ]内は中谷の言葉)。
<1>生理的な快楽[本能的な満足]
お腹一杯食べたり、ぐっすりと安らかに眠ったり、性的な興奮で生じる感覚
<2>報酬系の快楽[達成感]
困難な目的を達成したときに生じる感覚。サッカーのゴール、麻雀のロン、数学の問題を解く。これら報酬系は悪用されやすいが。
<3>愛着の仕組み[存在の当然性の感覚]
興奮ではなく安らぎを得る。愛する者の顔を見たり、触れ合ったりする。表現は異なるが、突き詰めれば自分の存在がそのまま認められていること、と中谷は解釈している。
多くの人が、愛着のモデルが「感じられない」、うまく思い描けない時代になっていると思います。個人の尊重とか、未来の可能性なるものが、それまで家族の中で満たされることが前提となっていた“愛着”を、“成功”のための物語にすり替えてしまっているからなのかもしれません。しかも、時代はどんどん不透明になり、加えてコロナによって人のつながり方が大きく変わろうとしている。
社会的な行き詰まりは、その昔、男性に生じる感覚でしたが、これが性差の問題ではないことは、女性の社会進出が進んだ結果、自明のこととなっています。表面的な精神疾患の訴えは若干異なるものの、その本質はこのモデルで見た場合、さして違いはないように思います。
まだティーンエイジャーだった頃、私は<3>愛着の仕組みを、<2>報酬系の達成の中に無意識のうちに組み込んで行動していました。まだ、若かったとういのもあるでしょうし、十分に機能していない家庭環境も影響していたのかもしれません。私が何かを達成すれば、愛着の元(原家族)はその形を保って続いてくれるのだ、と思い込んでいたという話は以前にもさせていただきました。その哀しい勘違いから随分遠回りして、愛着感を自らの中に見出したわけです。だから、というべきか、この『(大人の)愛着障害』、すなわち、自分の存在の当然性なる感覚の大切さは、人一倍身に染みているし、それこそ多くの方へお伝えしたいことでもあります。
この愛着というもののもたらす影響について、何となく聞いた気になって、それが実の理解を妨げてしまっているということはないでしょうか。
一見、全く関係ないことに聞こえるかもしれませんが、私たちが生きるこの資本主義社会というシステムとの関係性にも触れておきます。資本主義社会は、その初動こそ非常に稀有なもので、メンタル面を含めた条件がそろって初めて発動します。それでいて、一度走り出してしまうと(軌道に乗ってしまうと)、自動再生を繰り返すようになる。かつて日々の糧を得ることに苦労する中で根付いたこの社会システムの流れにのって、経済行為を第1に考えて日常を生きるうち、ともすれば自分を見失うということが世代にわたって繰り返され、自分自身や肉親との関係性がおかしくなってしまうということが起こりえます。某合衆国の大統領がはやらせた言葉に、××ファースト、というのがありますが、普通に考えれば、お金ファースト、ではないですよね。
多くの行き詰まり感や息苦しさは、自身を深く振り返る中で、何が大切かをもう一度明らかにすることで、日常の一部にとけこんていくものではないでしょうか。
最後になりますが、愛着の理解には、自分と向き合うとともに愛着のもとになってくれるべき肉親との距離が関わってきます。私の場合、母とは他界までの数年を一緒に過ごす時間を持つことができたことが救いでした。願わくば父ともそうしたかったという想いが、自分を取り戻すにつれ蘇ってくるのが少し哀しい。両親が他界したからもう無意味ということは全くありませんが、それでも大切な人が生きている世界はそうでない世界よりいいと思います。それがこんな駄文を書き続ける原動力になっていると言えなくはないですが。
ー今回の表紙画像ー
『夕暮れの富士遠景』
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