当たり前。
それこそ“当たり前”に見かける言葉。
そうするのは“当たり前”
そうなるのは“当たり前”
やって“当たり前”
当ブログでもあちこちで使用していますね。
自分で使っていてこう言うのもなんですが、あまり気持ちのいい言葉ではないなと思う時があります。決め付けられるように感じるからでしょうね。一応そのあたりもケアしてはいるつもりなのですが(言い訳)。
心理カウンセリング、精神医療、メンタルヘルス。
こういった分野で功績として挙げられることの1つに、鬱や統合失調などのメカニズム解明やそこからの恢復の実現などが挙げられると思います。
その一方で、奨励されている行動や言葉、モノの考え方自体は、ずっと昔、それこそ何百年も前から伝わっているのではないか、というようなものもあって、それを治療やセラピーの場、あるいはカウンセリングを学ぶプロセスなどでうっすらと、あるいは明確に感じている方々も少なくないのではないでしょうか。かつて、セラピーを受けていた頃の私も、そのように感じる部分がありました。いずれもどこかで聞いたことがあったり、当時はまだ良い印象を持つことができていなかった親から口を酸っぱくして聞かされたことだったりしたことを思い出していたものでした。
そして、紆余曲折を経て今に至り、実感していることがあります。
それは、皆さんが何かを体得する中で行ってきたことであり、あるいはその究極の形と言ってもいいことなのかもしれません。それは、
“当たり前”のことを“当たり前”に行うこと、行い続けること。
拙ブログでは繰り返し、かけがえのない自分を生きるために、
自分を受け入れること、それも
自分が憎み、蔑み、遠ざけていた自分と再会し、
真摯に向き合い、
自らの一部として統合すること
その出自に立ち合い、
そうならざるを得なかった自分をしっかりと抱きしめ
それでも社会的におかしかった部分は一緒になって修正し、
これからの時間を一緒に歩いていくこと
とお伝えしてきました。
誰にも言い訳できない時、
誰も頼ることができない時、
孤立無援を感じる時、
繰り返し、繰り返し、
自分の味方になって、
自分とともにいて、
変えるべきは変え、
受け入れるべきは受け入れ、
自らを正当化するのではなく、
そのままの自分を認める。
これらを実践し、自らの統合が進むほどに、
安定していた(と思い込んでいた)頃の昔の自分に戻るのではなく、
新しくて、より自分そのものに即した自分らしい自分に生まれ変わっていますよ、と。
とてもベタでライトな例を一つ。
仕事でミスをしてしまったとしましょう。
昨今のご時世、新しく配属された部署で、新しい仕事を与えられ、まともに勉強する暇もなく、残業は制限され、結果は求められ、何をしていいかもろくすっぽわからず、周囲に頼る人もいない。
仕事ばかりではなく、人生にはこのようなシチュエーションが時々あるものです。
そんな時に出来ることについて。
朝昼晩と襲ってきて、不眠にさえなりかけるような、
仕事がうまくいかないことへの不安
職を失うことへの猛烈な恐怖
周囲の叱責に対する怯え
勉強する時間も頼る人もいないことへの憤り
嘲笑されないかという見栄
数え上げればいくらでも出てくる負の感情に対して、当事者になったときにできることは…
・できること、手がつくことから片付けながら、事情を上司に説明して相談する
・うまくいかない自分を責めない
・人の目を気にしない。誰から何かを言われたとしても、それはその誰かの意見。自分はいつも自分の味方でいる。
・怒鳴られたり、感情をぶつけられたりするようなら、その場を離れる。
・うまくいかなかったときに正当化することはやめる。それは自分のためにならない。
・後から言い訳しなくて済むよう、その時の精一杯を心がける。精一杯とは、その時々で心がついていく範囲で実施できること。
・それでも違和感がぬぐえないなら、転職や起業を試みる
・これらと並行して、余力を見つけて、少しずつ好きなこと、新しいことを始めてみよう。
そう、これらの行動の中に特別な内容は入っていません(私たちが苦しむのは、行動できなかったり、行動や思考を妨げる内面の葛藤ですから)。全て理想的な親や教育者が自分にしてくれたこと、あるいはしてくれるはずのことです。
そして、おそらく
「バカらしい」
「ありきたり」
「本質的(な解決)じゃない」
と思われるかもしれません。
「そんな“当たり前”のこと、わかってるんだよ」と。
まあ、ここではあえてそんな例を示しましたしね。
言ったてしょ。ベタでライトな例だって。
ですから、それ以外の効果がある方法をご存知の方は、それを実行してください。
ですが、おそらく、本質的というなら、これほど本質的な解決方法はないのではないでしょうか。
“当たり前”のことを“当たり前” に行うこと、行い続けること。
仕事の話に限定してしまうと、「やる気、根気、元気が出ないんだよ」とどっかのセリフをそのまま持ってきたような答えが返ってきそうですが、自分にしっかり寄り添いながら出来ることをする、ということは、“当たり前”の行動を日常生活の中に組み込むことなのです。私たちは日々の生活の中で自分が背後に抱える世界観に従っていくつもの感情を湧きだたせ、それに沿って心持ちを良くも悪くもする生き物です。
だからこそ、生まれてから与えられてしかるべきモノの見方・感じ方について、大人になった自分が繰り返し与え続けることはとても有効な方法だし、決してバカらしいことではありません。
自分で自分に暗示をかける、というのは少し異なるかもしれませんが、結局のところその積み重ねが、心と魂の新陳代謝によって自分を受け入れることができる自分を作り出していきます。それは、これまで自分をそう扱ってきた自分ではなく、新しい付き合い方を決意して生きていく自分であり、明日、明後日、一か月後、一年後とつながっていくことは間違いありません。
少しだけでも感じて見てほしい。
その一歩、その一所作が、思考の選択が、明日に繋がっていることを。
未来を作る土台をなしていることを。
一週間後、一ヶ月後、一年後、十年後。出会うもの、訪れるもの、生まれるものが異なってくるよ。
ー今回の表紙画像ー
『パンを焼いてみた』
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