いつかこの世からいなくなる

日々の棚卸

これを書いている5月初日の午前は初夏を思わせるようなさわやかな気候で、先ほど用事がてら外をぐるりと歩いてきたらわずかに汗ばんでいました。概して朝は強い方ではないし、早起きの得よりも、あと〇分の惰眠を貪る質ではあるのですが、季節ごとの明け方の匂いは、皮膚感覚に染み込むほどに、なぜだか自分を肯定してくれているような気がして気持ちがいいものです。

コロナウイルスによる自粛生活、皆様はどのようにお過ごしでしょうか。家族構成や環境など様々な要因が重なって、苦になる方、ならない方、実はハッピーな方、それぞれおられるかと思います。私はと言えば、外に出られるならそれに越したことはないけれど、(都民ではありませんが)ステイホーム週間ということで家の中とその周辺が行動範囲ということであれば、それなりに過ごせる性格のようで、気ままに暮らしております。

 

気ままに、と書きましたが、テレビをつけると今回の惨禍がもとで他界される方々の人数が繰り返し伝えられています。とても残念です。また、コロナウイルスの影響により、1,2か月後あたりから鬱を患う方が出ることが予想されます。ご注意ください。

 

自分の混乱と肉親の自死の問題に端を発して心理の世界に飛び込んだせいか、この騒動の少し前まで、駅のホームに立つと人身事故による電車の遅延の報が気になって仕方がありませんでした。約束の時間にあわせて都心に向かう列車を待っている時、打ち合わせで遅い帰路につく時、いつしか流れてくるアナウンスに意識を集中するようになりました。

理由を追っていくと、会社に行くのがつらい、学校に行くのがつらい、居場所がない、といった死を選択するにはあまりに哀しい理由が見えてきて、胸が痛むし、自分の無力さにも苛立ちます。この騒動の収束にあわせて、一人でも多くの人が、追い込まれた時に究極の選択以外の道を選択してくれればと思います。自分を無理に何かに当てはめて追い詰める必要なんて、本当は全くないということは、誰もが頭ではわかっていることだと思うのですが。

 

実際には、都市、田舎を問わず、共同体や人の集団で暮らしている限り、どうしてもスタンダードな生き方、モデルというものがあって(あると錯覚してしまって)、私を含めた大方の人はそこに自分を当てはめるべく日常を生きています。必然、働き方、時間配分、収入、人の付き合いなど、似通った状況が形成され、その中で生き残ろうと日々をあくせく生きるうち、本来の自分を見失ってしまう。きっと、そうなる手前に、胸の痛み、苦しみが自らを覆ってしまうようなフェーズがあると思うのだけど、いつも何かに追われるように暮らしていると、なかなか顧みる余裕もないのかもしれません。

ただ、理由はともかく、自分が苦しいということだけは自覚できるようで、問題・原因探しはそんな時に始まって、あるいは顕在化して、自分を偽るが故に生じている痛みを別の何かにすり替えて原因としてしまうことがあります。奇異な理由に聞こえるかもしれませんが、かつての自分に即して言うなら、そんなことをしてまでも現状に甘んじている方が、偽りだろうが真だろうが自分とスタンダードな生活を保つことができると思ってしまうのです。その実態はと言えば、生活から“彩り”や“香”が消え、殺伐、ギスギスとしたものになりがちです。それと前後して感じる人の関係の重み・軋みともども、日常を生きることへの不信が内面に広がりだすと、その不信が偽りという不実と相まって、現在と未来を曇らせるようになります。

 

自分が追い込まれていく流れを抽象的にトレースすると、こんな感じなのかもしれません。

ですが、当事者としては流れがどうであれ、前にも後にも動くことができないと思い込んでしまい、かといって打破するための飛び道具も思いつかず、現実と虚構の狭間で自分の存在価値を貶める声とも空気ともつかないものに骨の髄までおかされて、究極の手段を取ってしまう、ということでしょうか。

 

かつて、父の自死の理由を際限なく思い悩んでいた時期がありました。自死の理由という考え方自体が、自死=自ら命を絶ってしまう者の感覚とかけ離れていると感じたのは、同じ自死遺族の集会に何度も出るようになってからのことでしたが。

ともかくもその想い悩んでいた頃には、よく上述のような理屈をぐるぐると頭の中でめぐらせていました。お金、立場、自分を追い詰める対人関係、残された時間で対処可能な方法と無力な自分との対比…。普通と言われる人を死に追いやる力学とは何かを理解したくて思考を重ねました。その中には、しっくりとくる理屈もあれば、これは違うだろうなというものもありましたが、確実に理解できたことは、死んでしまった者は生き返らない、というどうしようもない事実。

…父なりに、死を選ぶほどに追い詰められていたのだ…たどり着いたのはそれだけでした。

死を選択された方もきっと、同じようにそれ以外の選択肢が見えなくなっていたのではないかと推察します。そのぎりぎりのところにあった葛藤と感覚麻痺に至る痛みはいかばかりかと思うと、正直なところ言葉もないというのが本音です。

 

最後に、私自身が追い込まれた頃のことに少しだけ触れます。

死を想像したときを振り返ってみると、若い頃に2度ありました。

原家族がバラバラになったときと、父が自死したときです。

自分を抱きとめ、受け入れることの大切さを身をもって学んだ時期でもありましたが、同時に死というものにそれまで以上に真剣に対峙したときでもありました。

そして、ある時ふと思いました。

 

「あ、そうか、いずれ自分も死ぬんだ」

 

本当に、バカみたいに、そう思いました。

死に想いを巡らすうち、そう思っている自分に出会ったという表現が正しいのかな。

そんな私にとっては、死を選択することは、とても怖い。

いかなる理由があっても、今生きて息づいて活動しているこの肉体を、自らの選択によってこの世から消さねばならない理由などない。しかも、弱り果てている自分を消してしまうこと、それは、絶対にやらない。

 

あなたも私も、大切なあの人も、大嫌いなあいつも、みんなみんな、いつか必ずこの世からいなくなってしまう。この肉体もあの身体も、いつか消滅する運命にある。

焦る必要はない。何者かになる必要なんてない。

今ここに息づいている体と魂は、誰かのためでなく、自分のためにあるものだ。

追い詰められるその手前に、生きるという選択肢を一つでも想定しておいてほしい。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『今朝の散歩で見かけた花』