母に言わせると、私が最初に遊んだ友達は近所のリカちゃんという女の子で、初恋の人でもあったそうです。リカちゃんなんて人形じゃないんだからと思いますが、一緒に遊んでいたのはどうも本当のことらしく、彼女と私の2人(ともう1人)が砂利道に座り込んだままカメラの方を向いて笑っている写真を見せつけられたことがあります。私が2歳の時の写真だそうです。こんなモノクロの誰がとったかもわからん古い写真見せてどういうつもりだと、一瞬、頭の中に疑問符が浮かんだのですが、今頃何を言っているという母の口調に、黙って写真を見てみるしかありませんでした。
「えっ、この子?」
写真を見て、率直に口をついて出たその言葉とともに、当時の自分の好み(?)に目を丸くした記憶があります。
だいたい、そこに写っている女の子が本当にその子なのか、あるいは本当にリカちゃんという名前なのかは知る由もありません。ですが、今も手元にあるその写真は、まだもの心つく前の私の日常を垣間見せてくれている貴重な絵で、家族が私に与えてくれた大切な思い出になっています。
個人の幼き頃のしょうもない思い出話から入ってしまい、申し訳ありません。
ここで取り上げる友達は、そういった記憶の彼方に置いてきたよく思い出せない存在というよりは、今現在、自分と話しうる可能性のある人のことです。もちろん、昔馴染みでもいいし、実家と離れて暮らしている方はそちらの方の方だってかまいません。
小学生、中学生と成長し、社会へと出て行く中で、私たちは多くの人と知り合い、その中のいくばくかの人と友達になります。それが現在まで続いている方もおられるでしょうし、昔はそういった友達がいたけれど今は友達と呼べるような人は一人もいない、とか、昔から人とは折り合いが悪く、友達と呼べるような人は一人もできなかった、という方もいらっしゃるかもしれません。
友達。
誰もがどこかでいてほしいと願う存在。
はっきりと、僕は、私は、そんなの全く必要ないよ、と気負いも衒いもなくそう言える人と私は出会ったことがない。でも、その一方で、友達はいればいたで時々面倒くさいこともあります。
そう、友達という存在は、いいことばかりあるとは限りません。衝突したり、甘えられたり、というならともかく、時には手のひらを返したように冷たくされることもある。そんなのは友達じゃない、という人もいるけれど、相手もまた自分と同じ一個の同世代の人間であることが多い以上、成長の度合いもモノの見方・考え方も、それほど大きく変わるわけじゃない。というより、大きく変わらないからこそ友達になったという側面すらある。そして、同じことを自分は絶対にやっていない、と言える人はそれほど多くないのではないでしょうか。…自分のことを振り返っても…。
なんだかんだ言ってもやっぱり、追い詰められたときには、理想的ではなくても、声をかけてくれたり、話を聞いてくれたり、どこかにいてくれると安心する。
友達は、時には仲間になることもあるし、仕事やスポーツなどでライバルになることもある。異性なら、いや、今は同性でも、恋人や夫婦だったりもする。
友達が欲しい、という人がいます。
そう言われて、「では、あなたの方から話しかけていきましょうか」とひとまず提案します。案の定、「それはできない」という答えが返ってきます。ハードルが高い人にはハードルが高い行為。私も似たような状態の時があったので、とてもよくわかります。たかが声をかけていくことができない、そんなメンタリティにまで落ち込んでしまうときがあるんですよね。
そんなときは、無理に動こうとしないで少し心を休ませているのがいいのだけど、寂しさが優先されておかしな方向へ活動しては勘繰ることを繰り返してしまう人も少なからずいます。
友達は、必要なものでしょうか。
いればありがたいかもしれないけれど、いない人、とても少ない人はいかがでしょう。
恋人もそうだけど、寂しいから、欲しいから、作るといった類のものではないと思うのです。寂しさは、個々人の環境に訪れた自分自身の深い部分とつながるための心の“友達”。『その時の自分といかに寄り添うか』こそが、その人自身の友人関係を決めているように思うのです。決して、数の多寡ではありません。
自分が追い求めるものが、自分の中から湧き上がる、
もっと世界を知りたい、
もっと世界とつながりたい、
もっと世界にとけこみたい、
もっと世界を楽しみたい、
もっと世界に好きを知らせたい、
そんな思いだったとすれば、そこに当てはまるもう一人の誰かと出会うでしょう。
友達のいる人、いない人、それぞれ抱える想いがあると思います。
友達がほしいと思うとき、ほんとは何を望んでいるのでしょう。
親のような友達?
仲間のような友達?
力になる友達?
それとも打算?
そのどれもないとすると…。
もう一人の自分?
ほんとは、誰てもよかったりして。
信じる者は救われる。
斟酌してもらったり、忖度したりする必要はありません。
大好きな誰か。気に入った誰か。そんな誰かが横にいてくれることのうれしさ、ありがたさ。それを感じられること。
もしかして、恋と似ていたりするのかな。
相手がどうのではなく、自分次第?
心の奥の奥まで正直に探っていくと、自分が望むこと、願いが見えてくると感じるのは私だけでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『しゃがみこみ跡地』
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