大逆転?

日々の棚卸

昨年行われたラグビーワールドカップ。日本代表が決勝ラウンドに向けて勝ち上がっていく姿に、自分でも予想外に興奮しました。集団とか群れはあまり得意ではないはずなのだけれど、傍からスポーツを見ている分には楽しくなるからのめりこんでしまうのかな。自国とかひいきのチームや個人が勝つ姿を見るのはやっぱり嬉しいんですよね。映画やドラマでも、社長になったり、玉の輿になったり、世界チャンピオンになったり、何かと下克上的な物語は受けがいいし。

もっとも、そこには必ず、パターンがあるけれど。

勝ち上がる人は必ず美男美女か、虐げられている状況に立ち向かう正義か、自分を顧みず大切な人々を幸せにしようと尽力するか、というストーリー。一言でいえば、努力したり工夫したりして不幸な環境からヒーローヒロインになって幸せをつかむ大逆転の物語で、昔も今も尽きることなく作られ続けています。

私も嫌いじゃなくて、ときどき見入っては感動する単細胞。

 

物語の中にいるときはそれなりに幸福な気分に浸ることができても、意識が現実に戻るとそうとばかりも言っていられな人が、現実には少なくないようです。

日々襲ってくる苦痛。

これまで生きてきた中で受けてきた、感じてきた、多くの苦痛。

カウンセリングや医療機関で、治療を受け、癒しを望みながら、悩みの吐露を繰り返す日々。

仕事がうまくいかない、覚えられない、夢がない、つまらない

働くこと、批評されることがつらい

夫婦関係が苦しい、一緒にいたくない

友人関係が苦痛だ

収入が少ない

将来が真っ暗だ

自分は低能、屑、卑怯だ

過去の怒り・恨みが離れない

 

そこに、自分の内側に向けて放たれ続ける際限のない攻撃のエネルギーがあることも頭の中では理解はしている。でも、どうにかしなきゃ、何をしたらいいんだ、と焦るほどに、自らが日常に用意した無価値観や苛立たしさが沸き立つ感情の沼にどっぷりとつかってしまう。

これらの感覚に長い間覆われ続けると、ダメージを受け続けた心や体がもたないと判断して、そう遠くないうちに鬱や無気力な状態に陥ったりする人もいます。

一見よくないことのように思えるかもしれませんが、自他を攻撃する感情は、究極のところでは、自分を死に至らしめるか、人に危害を加えるか、いずれにしてもこれ以上ないほどのダメージを人に与えることを無意識は分かっているからこその症状だと思います。

 

こんな状態に至る前に、多くの人は、感情を占有する苦痛を何とかしようとして悪戦苦闘します。対応しようとすることは悪いことではないのですが、外側を変えようとするか、自分の欠点や欠陥を否定して変えようします。そして、その痛みを緩和するために、冨や名声のような代償を得ようとすることをゴールとすることもあります。

 

狙いは何でしょう。

自分の中の何かを満たそうとすることでしょうか。

自分をそう足らしめた者たちへの意趣返しでしょうか。

抑圧されてきた自分らしさを世間や周囲に知らしめるためでしょうか。

誰に、何を、どうやって、結果がどうなったら、満足なのでしょう。

 

苦痛は、事実でしょう。

それを否定しても仕方がない。

それが肉体的なところまで影響を及ぼしているのであれば、医療機関などで対処をこころみることは大切であることは間違いありません。

 

でも、苦痛の元を追っていき、そこにある感情を認識して、直接何とかしようともがいたところで、その感情を変えることはまず不可能です。

その昔、感情は屁みたいなものだ、と聞いたことがあります。

「せめて“大気の流れ”くらいの表現しろよ」と内心思いましたが、自分の体から出てくるものであることを考えれば、あまり認めたくないけれど絶妙な表現の気もします。

以前も紹介しましたが、アパホテルの会長の名言に「入れたものしか出てこない」というのがあります。ホテルの部屋においてある櫛や歯ブラシの入った透明な袋、あるいはタオルを巻いた紙なんかに、いろんな名言がプリントされていて、そこにあった一つでした。人は食べ物を食べて、消化して、そのカスを排出するします。

もちろん、屁もその一つ。

感情も同じですよね。

人や世の中の何を(体を媒介して)心に取り込んで、自分の中で消化吸収し、湧き出てくる感情を作り上げているわけです。入れるものと吸収する心の機関というか組成を変化させていかないと、出てくる感情は変えようがありません。

そこに気づかない限り、出てくる感情に翻弄されて苦しいまま、世に成功と言われる何かを求める“代償行為”に走り、また感情の沼へ。その繰り返しではないでしょうか。

 

世に成功者と言われる人々。

俳優・女優

売れっ子漫画家作家

ホームラン王

大統領

世界チャンピオン

企業の社長

大金持ちの妻

 

あなたにとってはいかがでしょう。

そんな俗っぽいこと、夢物語は望んでいないというかもしれません。

私はただ、安心した幸せな人生を送りたいだけなんだ、と。

そんな肩書やお金なんて。

でも、行き詰って、苦しんで、自分も大切な人もどう見ても幸福とは感じられない日常にあるのなら、1つだけ確実なことがあるはずです。

それは、今の自分に対して何らかの変化を望んでいるということ。

 

もう一度問います。

誰に、何を、どうやって、結果がどうなったら、満足なのでしょう。

誰の、何が、どうなって、結果がどうであれば、満足なのでしょう。

変えていくために、自分がやることは何でしょう。

今までそれがうまくいかなかったとしたら、何がおかしいのでしょう。

もう機能しなくなっている何かがそこにないでしょうか。

心も体も動かなくなっても既存の価値を求めて、鞭打っているところは何でしょう。

 

自分に優しくすることは、人にも社会にも優しいということ。

自分を認めるということは、人も社会も認めるということ。

そうなったとして、自分はどうしているでしょう。

そうしたとして、自分はどうなっているでしょう。

自然に、自分を認めてあげるように自らに働きかけ、人や社会を大切にするように自分ができることで貢献していこうとしていませんか。

 

何を狙ってる?

何に対する逆転?

何をやり返したい?

ほんとにそれが理由?

純粋にお金や地位がほしいの?

美味しいとこ取りがしたいのでは?

 

やっぱり、そんなことはないはず?

幸せを求めているだけ?

では、最後にちょっとだけ言わせてください。

大逆転=ひっくり返すことがあるとすれば、それはあなたが幸せに気付くことだけでは?

 

えっ?

そんなこと知ってる?

あっちこっちで言ってる?

ほんと?

そうかもしれないけれど、実践できていないでしょ。

だって、自分を呪い続けてるんだから。

 

えっ?

いつもいがみ合っているけれど、大切な人々が不幸なままで自分だけ幸せになれるはずないって?

いやいや、順序が逆でしょ。

自分呪うのやめて、自分の中を満たして、自分がよくなっていくように、自分を受け入れ続けてください。いつも言っているように。

あなたが勝手に変わっていくと、周囲もその影響を受けるようになります。

あなたの大切な人々も変化しだしますよ。

 

生きていられて、動くことができて、食べることができて、見ることができて、聞くことができて、におうことができて、触れることができて、考えることができて、感じることができて、そして、腹立てる相手がいて、軽蔑する相手がいて、文句言いたい相手がいて……。その相手って、親?子供?伴侶?恋人?友達?

 

そういうのは、もしかしたら幸せの一部だったりしない?

やっぱり受け入れらない?

 

ー今回の表紙画像ー

『プチ幸せの自家製うな丼』