会社で働いている人、
家事をこなしている人、
独り身の人、
家族で暮らしている人、
周囲と折り合いの悪い人、
感情に振り回されている人、
引きこもりがちの人、
お先真っ暗で落ち込んでいる人、
毎日エクササイズしている人、
晩酌する人、
夜眠れない人、
立場や状況に関係なく、
誰でも自分を卑下することは
あると思います。
自分は×××だから…、と。
例えば、
仕事のミスが多くて叱られてばかりの人は、
注意力が足りない、
落ち着きがない、
丁寧さが足りない、
いい加減だ、
だらしがない、
など、さまざまな種類で自分を責めます。
ことが起こったその時だけ卑下して
後を引きずらないものから、
そこまでやったら朝起き上がるのも辛いほど
ボロボロに卑下するものまで、
さまざまなレベルがあります。
仕事のミスでする卑下一つとっても、
バリエーションはあるわけですが、
ほとんどの場合、他のことでも、
その人ごとにレベルがあったりします。
★
自己卑下は、しないで済むなら、
それに越したことはありません。
もっとも、
自己卑下と縁のなさそうな人が、
人の批判をしていたり、
嘲笑っていたりするのを見ると、
「もっと自分振り返れよ」
なんて思ったり、
自己卑下に落ち込まないように、
必死に戦ってるんだな、
なんて考えたりもします。
いずれにしても、
自分を全く卑下しない人なんて
世の中にはいないと思います。
自己を卑下することは、
どこかで自分を惨めだと思っている、
そんな解釈もあるでしょう。
惨めということになると、
失敗者
敗残者
女々しい、
男(女)らしくない、
うまくいかない、
人から馬鹿にされている
人から軽蔑されている
みっともない、
気持ちが悪い、
裏切られる運命だ
などと言い換えられてしまうかもしれません。
もう、ますますもって、
陥りたくないですよね。
そもそもこの“惨め”という言葉自体、
何としても人生から遠ざけたい。
それほどに、
無力さ、
格好悪さ、
批判浴びせられまくり、
自分で駄目にしている感、
そういった避けたい感覚の
オンパレードが並んでしまいます。
もう見向きもしたくない。
そうなるのではないでしょうか。
こんな時、できれば、
この惨めな感覚が嫌だからと
遠ざけないようにしてほしいのです。
自分の本来の力、
ここまで生きてきた力、
生き延びてきた力、
そういった自分の力が見えていないまま、
自分の無力さに打ちひしがれている方に、
「そんなことはありませんよ」
とお伝えすることがあります。
実際、乗り越えてきた問題を見れば、
本来の意味で無力な方は、
おられないものです。
実はこれ、私にとっての、
反省点でもあるんです。
おかしな言い方ですが、
その方にはご自身を惨めだ、と
感じる権利があって、
誰もそれを奪うことはできません。
米国の精神科医コークが、
トラウマに苦しむ女性たちの治療で
こんな経験をしたと言います。
面談や治療の場で、
人生の様々な躓きや失敗から、
自己卑下の言葉を口にする彼女らに
「自分を労わろう。
そんなこと言っちゃだめだよ」
と、繰り返し伝えたそうです。
これが彼にとっての治療であり、
優しさから出た言葉であることは
明らかでしょう。
しかし、何度となく繰り返される
医師の言葉を耳にし続けた女性の一人は、
卑下を否定されることに対して
自分を二重に否定されているようだ、と
静かに伝えてきたと言います。
唐突ですが、
私たちは可能性の世界に生まれてきました。
可能性を感じると、
それを達成したいと思うようになります。
それはとても素敵なことだと思います。
ですが、可能性を達成することは
惨めさを克服することではありません。
何もできないと感じ、
打ちひしがれたままそこに佇んで
途方に暮れている自分がいます。
惨めな自分に落ち込んだとしても、
惨めな自分を否定する必要はありません。
落ち込む感覚は気持ちよくはないけれど、
落ち込む感情を芽生えさせた
大切な自分がそこにいて、
一緒になることを待っている、
と考えるのは素直な感覚に思えます。
その自分を認識・肯定し、
自分の一部として受け入れていくことの大切さが
伝わるといいのですが。
卑下する自分も、
惨めな自分も
みんな大切な自分の一部です。
こんな話しか書けないなんて…
と卑下するのも、私自身なんだな、
なんて。
ー今回の表紙画像ー
『墓参りの途中?』
雨の中、名古屋に行ってきた。いや、大変だったな。(写真は停車中に撮影)
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