自分の存在の希薄さを受け入れる時

日々の棚卸

 

世の中は“よくできている”な、

そう感じることはあるでしょうか。

 

この“よくできている”という意味は、

よくできていて素晴らしい、

という意味以外に、

 

ほんと、なるようになって

今のとんでもない状態になっているんだな、

という意味もあります。

 

そういう意味において、

世の中は“よくできている”な、

という感覚。

 

私の場合、

こと、自分に関することについては、

そう感じています。

 

自分がそうであるように生きてきて、

今の立ち位置と人の関係性になって、

今とこれからについて感じることまで、

 

言葉や数式ではうまく表せないけれど、

まさに世の中の仕組み・力学によって

 

良くも悪くも、

今の自分はこの状態にあるんだなよなぁ、

ということです。

 

そして、そう感じることに

どこかで救われている気もしていますし、

 

だからこそ、

人は苦しむんだよな、と

今さらながらに思いもします。

 

ここで使う言葉ではないですが、

あえて言えば

『世の中捨てたもんじゃないな』

 

と思うのです。

 

 

以前にも紹介しましたが、

米国の人類学者、サイバネティシストである

グレゴリーベイトソンは、

 

『杖を突いて歩く盲目の人にとって、

その人の自己とはどこまでを指すのか』

という命題を出して、

 

私たち『自己』という存在について、

洞察を投げかけています。

 

その人自身という境界に線を引くとすると、

それは、

 

杖を握る手のところか、

杖と彼が歩く道の接点か、

あるいはもっと別のところか…。

 

ベイトソンは自ら出したこの問いかけに、

『この問いかけ自体がナンセンスだ』

と結論付けています。

 

杖を握る盲目の人は、

杖と通して差異を感じ取り、

それをもとに次の行動にうつります。

 

以下は私の付け加えですが、

 

顔に当たる空気や耳にする音、

車のクラクションや盲目の人への声掛け、

盲目であるが故の独自の感覚なども、

次の行動に影響を与えるでしょう。

 

つまり、差異が伝達するネットワークを含む、

系全体を通して導かれている、と

表現することもできるはずです。

 

この『思考するシステム』と彼が呼ぶ、

一連の流れは、差異の変換体として

盲目の人に作用しています。

 

この、盲目の人にとっての自己についての

ベイトソンの洞察からは、

 

普段私たちが“自分”として受け止めている

私たち自身は、

 

何となく感じている私たち自身とは

随分違ったものになると

言えるのではないでしょうか。

 

私たち誰もが有する“観念”は

このネットワークに内在する、と

ベイトソンは言います。

 

一方で、

このネットワークは意識の囲いの外に延び、

無意識の精神作用のすべて』をも

包括するそうです。

 

 

影響を及ぼす肉体の境界、

あるいは遠心的メッセージ、

といった言葉は

 

ある一例に過ぎない盲目の人の行動を

私たち自身が生きる世の中全体に

応用する可能性を投げかけてくれます。

 

私たちは、日常顔を合わせる人々や

街や電車の中で偶然居合わせた人々との間で

 

気持ちを合わせたりくじかれたり、

快不快を感じて気分を左右されます。

 

そこには、世の中はこういうもので、

自分はこうだから、

相手は最低限こうあるべきだ、

 

という無意識の思い込みが働いています。

 

そこに居づらい、

その人といるのは身の毛もよだつほど嫌だ、

もうこんな仕事はしたくない、

 

そんなことが長く続いているとき、

そこにはこの無意識の思い込みまでが

影響していることはありえるでしょう。

 

この無意識を含めた“自己”は

心(魂)に囲われて存在しています。

 

次に、

道徳とか宗教はとりあえず脇に置くとして、

私が生きているように

これを読むあなたも生きていて、

 

あなたの大好きな彼や彼女も

あなたの大嫌いな彼や彼女も

あなたと同じように生きていて、

 

あなたの見知らぬところにも、

あなたが大好きになるだろう誰かがいて、

あなたが大嫌いになるだろう誰かがいて、

 

その集積が世の中であるとするならば、

 

私も、あなたも、

 

あなたの大好きな彼や彼女も

あなたの大嫌いな彼や彼女も

見知らぬ誰かも、

 

あなたが様々な相手との間で、

 

感じ、考え、言葉にし、

行動し、秘かに望み、

何かを決め、あるいは迷い、

 

そういった一連の流れの中に組み込まれている、

 

言い換えれば、

私たちが想像する以上に、

互いに連鎖し、影響しあっている、

 

だとすると、

私たちにとっての思い込みというものは

それが例えどれほど確実だと感じていようと、

 

もしかすると、

大きな勘違いなのかもしれません。

 

私たちという存在はその影響性を見た時、

私たち自身が考えるよりずっと

 

曖昧模糊としていて、広がっていて、

それでいて私たち個々はとても小さい。

 

そう感じるときが、

私にはあります。

 

だからこそ、

自分個人の思い込みに凝り固まっている時、

そうならざるを得ない時も含めて、

 

私たちは自らの存在の希薄さに、

 

いえ、

その希薄さが膨れ上がった世の中の

敵意の部分に飲み込まれてしまうことに、

 

怖れ慄いていて、

 

それが、

生きづらさの一つの要因なのかもしれない、と

感じたりもします。

 

 

私たち一人ひとりは、小さくて希薄だ、

というのは、

受け入れられる人も受け入れられない人も

いるでしょう。

 

ただ、少なくとも

そう感じる時がある、

そういう部分がある、

 

と言い換えると、もしかすると、

納得いただけるかもしれません。

 

それが受け入れられると、

 

自分自身の受け止め方が、

立ち居振る舞いが、

言葉の選択が、

感情の選択が、

思い込む理屈が、

 

つまり、生き方そのものが

変わっていきます。

 

必然、変化したあなたに対する

世の中の反応も変わってきます。

 

あなたに向けられていた(と思い込んだ)敵意は

あなたの内側で影を潜め、

 

自分と同じ、自らの希薄さ、小ささを

受け入れた人々との間に、

 

ささやかなつながりができたりします。

 

 

政治に、大金持ちに、権威に、

今日も敵意を向けながら、

生きづらさを抱える人がいます。

 

そんなことしている間に、

もっと自分が気持ち良くなることを

求めて動けばいいのに、

 

と思います。

 

生きる時間がもったいない。

 

そういう人はきっと、

自由な時間に襲ってくる

落ち込みややりきれなさ、希望レスを、

 

束縛された時間に感じる

自己卑下や怒りほどに、

怖れているのでしょう。

 

…と偉そうに書いていますが、

私もまた

迷いながら生きてきました。

 

もったいない時間の使い方だと

思うときもありましたが、

貴重な時間だったなとも思います。

 

参考になればいいのですが。。。

 

ー今回の表紙画像ー

『街の夕暮れ』