自分を繰り返し受容する練習

日々の棚卸

受容する、受け入れる、受け止める。

対象となるのは、素の自分。傷みの感情にまみれた見たくない自分。自分自身の中で目一杯忌み嫌っているものだから、自分の周囲からも社会からものけ者にされている(ように感じている)自分。惨め、みっともない、出来が悪い、格好悪い、胡散臭い、意地悪い、動こうとしない、動けない、怠慢、妬み、憎み、ひねくれ、愚痴り、悪く見ることにたけた自分。

そんな、受け入れがたい自分をしっかり感じられているだろうか。それが今回のポイントだ、

とてもきつい状態にある人もいるかもしれないが、あえて言わせていただければ最悪の状態ではない。自分を取り戻す端緒につこうとするつわりのようなものだからだ(すいません、つわりは体験したことないですが)。アルコールや薬物で紛らわせて、あるいは周囲を悪者にして怒りに嗜癖しているうちは、自らを受容するという発想も必要性も感じられない。苦しいからと言ってそんな方向に戻ることがないようにしてほしい。

 

常々、自分は大切だ、かけがえのない存在だ、と説いているつもりだが、うまく感じられません、なんでそうなのかわかりません、自分は違います、という方がいらっしゃる。ある意味当然かもしれない。

エンパワーは大切だが、そこに自己受容がないままでは机上の空論というか空念仏になりかねない。エンパワー、つまり自らを勇気づけ、力を与える言葉の付与や行為を、より素の自分に近づくために進むドライブフォースだとするなら、自らを受容することとはそのための足場をしっかりと固めることでもある。

そのために、自分に起こったこと、自分が起こしたこと、自分の自分に対する認識について、自分を責めることなく100%味方になって寄り添うこと、認めること、を行っていく必要があるのだ。

事実かどうかは別として、あなたが起こしたこと、あなたに起こったこと、あなたが考え感じることに対して、いろいろな人が批判する声が聞こえてくるかもしれない。時には、罵声を浴びせ、揶揄し、真綿で首を締めるようにねちねちと、あたかも親切を装って、ダメ出しされることもあるかもしれない。

そんなとき、あなたはどうするだろうか。

相手に対して、ではなく自分に対してだ。

相手に対して言い返すか黙るか迎合するか媚を売るか、は一切関係ない。まあ、媚を売る必要はないと思うが、それは当人なりの処世術的な側面もあるだろうし、表層的な立ち居振る舞いのことだからとやかく言うつもりもない。

そうではなく、自分に向けて何であんな馬鹿なこと言って/やってしまったんだ、自分は馬鹿だ、死んでしまえ、生きてる価値がない、などとぶつけているだろうか。そして、自分がそうしていることにしっかり気づいているだろうか。

自分にそれらの感情を向けてしまうことは、自己を受容していないことだ、と言っているわけではない。繰り返すが、しっかりと感じ取っているだろうか、と申し上げている。

 

最初に、今回のポイントなるものとして、受け入れがたい自分をしっかり感じているか、と書いた。自分を抹殺する方向へ追い込む数限りない言葉の群れを、感覚を、もう一人の自分をしっかりと感じているか、と。

そして一見、自分を苦しめるそれらの感情の存在はいったい何を意味しているのか、洞察してほしい。

それが私たちに伝えてくるのは、そう考えるに至った私たちの一部が今ここにいることを認めろ、というメッセージだ。そうではなく、湧き上がってすぐ消えていく感情ならば、深く長くしつこくあなたを苦しめたりはしない。

そんな感情(を持つ自分の中の一人の自分)がいるということを、自分の中にしっかりと感じて認めてほしい、そういっているのだ。どういうふうにしてその一人が生まれてきたのかは人それぞれだろう。だが、他の誰でもない自分の中の大切な一人として存在しているのだ。

だから、それらをしっかりと認めてあげてほしい。そして出来ることなら抱きしめてやってほしい。そんな感情を持つに至る淵源はあなたにしかわからないだろう。ただ、そこに眠る、あるいはじっと待っていたあなたの中の一人のあなたという存在と向き合ってほしい。今自分を苦しめる解釈をしている感情だとしても、もっと根源的な部分ではあなたを守ろうとして存在していたのではないだろうか、と想像してみてほしい。

それが表出したのが受け入れがたい自分だとするなら、まずはその自分を自分の一部として大切に受け止めて自らに統合する、その繰り返しの中でバラバラに切り離していた自己の一体化が進み、少しずつ足場が固まってくる。だから、医療機関による治療が必要ならきちんと診療を受けた上で、並行して自らのエンパワーとともに継続することで、少しずつ自分のかけがえのなさを認識できるようになる。

繰り返すが、自分を100%受容するということは、そこに沸き上がった感情=もともと存在していた自分の一部をそのまま認めてやることに他ならない。

以前書いたように、自分の中には複数の人格が存在すると考えると、特に自己受容というものの理解にとって話が通りやすい。人格という表現がひっかかかるなら、感情と言い換えてもいい。ただし、それらの感情があらわす全ての自分が全く同じ感慨を抱いているわけではないことも知っておくべきだ。自己を受容することとは、湧き上がった感情という一個の自分 - 例えそれが自分に対して自罰的だろうが、自分を正当化していようが、あるいは(これはなかなか難しいが)先に最悪の状態と書いたような嗜癖に陥っている状態であっても - を他の自分がしっかりと認め、一緒にいることだ。何度もそうやっていくうちに、自分の中で荒れ狂っていた彼・彼女はやがて自分の存在をアピールをしなくなる。自らの一部として認められ、仲間として統合されたからだ。

最初、慣れないうちは多少の空々しさを感じるかもしれない。だが、それは慣れの問題であり、後戻りすることが元の木阿弥になることを理解することで必然的に進んでいくものだ。

人によっては時間がかかるだろうし、試行錯誤は必要だ。時々、はいこれを学べばすぐ変わりますよ、という声や言葉が見聞きされるが、長い時間をかけて自分を追いやってきた人ほど、覚悟と時間が必要だ。ここでキレイ後をというつもりはないし、そんなやり方も知らない。王道に勝る近道なし、だ。しかし、その先に獲得するものは限りなく大きい。

 

私を含め、カウンセラーがセラピーを行う場合は、自分の過去とも照合しながらクライアントをエンパワーし、受容するフェーズがかかせない。クライアントは行き詰った自分を何とかすべく心理の世界に足を踏み入れてくるからだ。そして自分もそうだったが、カウンセラーであるかどうかにかかわらず、他者からのこの働きかけはそれまでずっと打ちひしがれていた部分の自分を勇気づけ、もしかすると何とかなるかもしれない、という気にさせてくれる上に、今の自分自身が実はそれなりの存在ではないかとさえ思えてくる。要するに、一時的にせよ気分が良くなるのだ。

ただ、それは決して嘘の感覚ではないが、長続きしないことが多い。生活習慣病の予防や治療のダイエットにコーチが介入してマンツーマンで指導するように、その人の思考や感情に対する処方を行うのだが、通常コーチがいつも付きっ切りということはないからだ。もちろん、人によってはその感覚を味わうために大枚をはたいて通い続けることもある。

しかし、身に着けるべきは『自分自身で』自分を認める力であり、その能力の向上だ。それこそが、自分が納得できる自分自身を歩んでいくために大事な術であり、大切な人々をも勇気づける根幹となる。

問われるシチュエーションは数え上げればきりがない。家庭で、学校で、職場で、友人間で、大なり小なり発生しているものだ。

こんな仕事もできないのか、やる気あるのか、まっとうに生きるつもりあるのか、と上司から嫌味をもとに指摘されたのなら(さすがにここまでやったら実際には立派なパワハラですが少なくないようです)、「すみません」ととりあえず表面上は謝りながら、自分の存在までは否定する必要はない、自分なりに精一杯やった結果だ、よく頑張ったんだよな、全力を尽くしてなかったとしても自分の心身の健康とバランスを考えた力配分でやれることをやったのだ、本当にこれが続くなら退職も含めて考えよう、決して恥ずかしいことじゃないしそこまで言われなきゃいけない仕事なんかじゃない、この結果を出した自分は自分の大切な一部なんだ、など、こちらも寄り添うための言葉はいくらでもでてくるはずだ。

子育てで姑やママ友から滔々と自らの至らない点を指摘されたのなら、自分なりに精一杯対処していると自分を受け止めよう。しかし、も、だけど、もない。自分が崩れて大切な子供にいいことなどあるわけがない。指摘してくる人たちもまた同じことをされたのかもしれないし、指摘自体が正しいとも限らない。そんなことを自分にとっての正当な評価と真に受ける必要などさらさらないのだ。

ぜひ、自分を受容することを続けてほしい。そのプロセスには自尊心の獲得までも含まれる。

上にあげた例は、上司とママ友だが、ここにはあらゆる存在が入る。神様も、私のようなカウンセラーも入る。反省して生きる原動力にできるのであればともかく、自分が打ちひしがれて何もできなくなるくらいなら、例え神様仏様から言われたことだとしても、右から左に素通りさせてしまった方がいい。それができないなら、しっかりとそこで頽れかけている自分を受け止め、自分でエンパワー出来るようにしてほしい。そもそも、人を多少なりともおかしくするような言動を取る人というのは、だいたいおかしいからね・・・というのが私の偏見的な自己受容と正当化だ。もちろん、正当化も行き過ぎると痛々しいし、迷惑になるが、それはまた別の話だ。

 

(いつものように)少々長くなってしまったが、最後に2つの話をして終わりにしたい。

一つは有名な『平安の祈り』のことだ。

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~神様、お与えください。

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを

変えられるものを変えていく勇気を

そして、二つのものを見分ける賢さを

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私がこれを初めて知ったのは、アルコール依存症という自分には縁がないと思っていたある本からだ。アルコール依存症をはじめとする自助グループでシェアの終わりに皆で唱えるもので、そこに長く通っている人々は日常生活の中で、何か事が起こるたびに口ずさんだり思い出したりして自分を守ろうとしている。

妻から少ない給与を馬鹿にされたのなら、一言文句を返したとしても彼女は変えられないのだから受け入れるしかない。前の晩に飲みすぎて仕事に遅刻したために上司から叱責されたのなら、例えそこまで言われたら傷つきますと反論できたとしても、上司の言葉は変えられないのだから受け入れるしかない。

だが、そこで傷つき、ともすれば一緒になってなんてダメな奴だと自分を痛めつける言葉をぶつける代わりに、自分に寄り添ってその時の精一杯だったんだと慰めることはできる。傷のなめ合いだの慰めだのという言葉は煙たがられることも多いが、使う時はきちんと使うためにあるというこを覚えておいてほしい。

平安の祈りのルーツをたどると、A.D500年頃にまで遡れることができるそうだ。哲学者ボエティウスは東ゴート王テオドリクスに仕えていたが、東ローマ帝国と通じていたことを疑われ、獄中死するにいたった。ここで書かれた『哲学の慰め』の一節がこの祈りの言葉だという。キリスト教から出てきた言葉であるが、一神教の神様ということを差し置いても、十分理解できる祈りだと思う。

もう1つは、現場のセラピーの報告から。

オランダの精神科医でトラウマ論の初期から活躍しているヴェッセルヴァンデアコークは、彼の著書の中で子供の頃に性的被害を含む暴力を家庭内で受けた女性たちの治療をしていたときのことを例に挙げて、自らを丸ごと受け入れることの大切さを自分のカウンセリングのミスを認めながら語っている。子供の頃に虐待を受けた彼女たちは、ともすれば自分をダメな女、人に尽くしていないと価値がない女として捉えていることが多い。基本的に、自分は存在しているだけでは生きる価値がない、とまで感じていることもままあるという。

心理療法やセラピーの中でセラピストやカウンセラーがクライアントである彼女たちのことを大切に思っていること、彼女たち自身が本来そう言う存在であることを説き、彼女たちに自信を取り戻させるために、無価値な自分、ダメな自分という捉え方は間違いだ、子供だったあなたの責任ではなく親の問題なのだと伝えることについて、ある時コークは彼女たちの一人から打ち明けられた。

「先生を信頼しているから言います。そう言われてしまうとひどい気分になります。確かに私は周りの人に何か悪いことが起こると、本能的に自分のせいにします。それが道理にかなっていないことは百も承知していますし、そう感じる自分が馬鹿だなと思いますが、どうしてもそう感じてしまうんです。もっと道理をわきまえるように説得されると、私はなおさら寂しく孤独に感じるだけで、私という人間がありのままの自分でいるのがどんな感じなのか、世界中のだれ一人として決して理解してくれないと感じます」

彼のような世界的な権威が、自分の経験と過ちを告白してくれたことには勇気づけられる。彼からすれば心理の領域を齧っただけの一介の名もないカウンセラーが、こうやって自論を展開しながらどこまでクライアントを有力化出来ているのか、と日々恐々としているくらいなら、少しでもこんな情報もまた発信していくとともに、自分の糧にしていきたい。

・・・あれ、もしかしてこれまでに無理やり「自分をイジメてるあなたは間違いだ」とかやってなかったっけ。

・・・仕方がない。自分の至らないところがあったのならきちんと見直して変えるべきは変え、自分なりに読者に寄り添おうとした自分の気持ちは大切に受け止めよう。それが今の時点でできることかな。