心の重石と一緒に生きよう3

日々の棚卸

心の重石。

1回目は、ブラックホールに例えました。

そう考えると、とてもしっくりくる、と。

2回目は、そのまま重石と捉えました。

どちらも、

重石とは自分自身のことだ、

それを力づくでどうこうしようとせずに、

自身の大切な一部として

一緒に生きていくようにしよう、

そう述べてきました。

過去2回と重なる部分もありますが、

もう少しこのことについて

お話させていただきます。

 

今回は、想いの源という見方です。

心の重石とは、

その想いが凝り固まってしまったもの、

そう解釈しました。

理由はともかく、

私たちが長い間、

うまく接してあげられなかったためです。

その塊を溶かし、

もう一度心の血肉として

心身の隅々までいきわたらせることができた時、

重石がずっとそこにあったこと、

というより、

そこにいてくれたことの意味が実感できます。

その時には、

涙が止まらなくなるかもしれません。

 

心の重石。

固まるしかなかったのかもしれなませんね。

でもまだ、粉々に砕けてはいない。

 

この重石を感じている人が、

人とコミュニケーションをとる中で、

うまく接することができないと感じるとき、

実は、重石とは何か、を体感的に

知るヒントがあります。

 

人と接するたび、

自分なりに真摯に会話をしようと

しているのだけれど、

なんだか、

話がかみ合ってる感じがしない、

しっくりこない、

自分の世界と相いれない、

そして、このまま話し続けても

最後は傷ついてしまいそうだ…。

 

そんな感じがすることはありませんか。

 

心の重石が感情を支配している時は、

うまくコミュニケーションがとれない、

と感じる相手が1人や2人などではなく、

会って話しているほとんどの人に、

そんな感じがどこかで

あったりするものです。

決して相手が悪いわけではないのですが、

自分の方が、

どうにも疑心暗鬼になってしまったり、

ラポールが作られている感じが

しなかったりします。

一言でいうと、

相手と気持ちの良い意思疎通をとることが

全くできている感じがしない、

ということです。

 

その感覚、

どこかで重石と連動していません?

重石は普段、

単にズドンと重く暗いだけの感覚と

感じて(思い込んで)いるかもしれませんが、

やはりどこかで何かと共鳴しているものです。

 

壊れたもの、

ひびが入ったもの、

大きな傷がついたもの。

相手のちょっとした反応や言葉は、

ほんとはそんな意味合いはないのに、

長年の受け止め方の慣れで、

自分の中の重石が

痛みや怖れの感覚と共鳴してしまう。

 

そんな状態では、必然、

人の輪から遠ざかることを繰り返し、

徐々に孤独になっていく。

肉体は生きようとしているのに、

心は人の輪から遠ざかりたがる…。

 

自己評価が低いという意味を

私たちは取り違えているような気がします。

心も体も自分のことが大切だと、

実は誰もが思い切り感じています。

だから、

人に文句を言われれば傷つくし、

うまくいかなければ落ち込む。

自分はほんとはそんな人間じゃない、

人に文句を言われたり、

うまくできないような人間なんかじゃない、

…でも、そうなってしまう。

自分のことを大切じゃないと思っていたら、

自己評価が低ければ、

傷ついたり、落ち込んだりはしません。

 

にもかかわらず、

追い込まれてしまうのは、

大切なはずの自分が

外から×をつけ続けられるうち、

それを取り込んでしまうからです。

 

柔軟で潤っていて

縦横無尽に感情の波となって

心身に行き渡っていた存在を、

外からの評価だけをもとに、

言葉や思考や感情で

叩き続け、

蹴り続け、

殴り続けてきたのは、

それらを取り込んできたあなたで、

そのために、

徐々に固まってきてしまった。

 

1回目の話で、

光さえも吸収してしまうほど

吸い込むことに膨大なエネルギーを持つ

ブラックホールと比喩した存在は、

裏を返せば、

頑なに固まって、

その時々の想いを柔軟に発せられなくなっている

感情の塊ともいえるわけです。

 

ならば、できることはその反対です。

 

触れてあげてください。

優しく声をかけてあげてください。

その時に大切なことは、

他者の評価は大切で、

それを受け止めたうえで、

それは自分の存在価値とは何の関係もない、

としっかり理解することです。

 

例えば、

さぼっている、とか、

嘘をついた、と言われると傷つきます。

そこにはきっと、あなたなりの事情もあれば、

時間がなかったか、

元気が出なかったか、

いろいろ理由はあるはずです。

パパママに抱っこされて、

大丈夫よ、となることを

どこかで期待するのではなく、

あるいは、

ただの一度だって

そんなことは父母に期待できなかったと

嘆くのではなく、

それを生きている自分、

今生き残っていて、

生きていたいと感じている自分が、

外部からの攻撃でよれよれになって

弱っている自分に与えるのです。

ダメかもしれない。

ここにいられなくなるかもしれない。

落ちるとこまで落ちてしまうかもしれない。

つまり、世の中的な評価からすると、

どん底になるかもしれない。

 

でも、そんなこと、

あなたの存在価値とは何の関係もない!

その線引きは、

そのまま自他の感情の線引き、

自分の感情を認めれば、

相手の感情も相手のものとして、

冷静に受け止められるようになります。

自らをそう律することができる人を

世の中はそうそう無碍に扱うことはしません。

自分で自分を大切にする人を

世の中は大切に遇します。

 

心の重石とともに生きよう、

と過去2回も書きました。

自分を導いてくれるはずの人々によって

投げかけられた言葉や行動によって、

そしてそれらを取り込み

内在化し続けた自分によって

重く硬くなってしまった感情の塊を

そうなってまでも、

ばらばらになることなく、

自らの中に居続けてくれた存在を、

もう一度、

もとの柔軟で力強い状態にするのです。

 

強酸の液体で強引に溶かすのではなく、

体温を与えて温めていくように

言葉や感情、思考を与えて、

ゆっくりと柔らかくしていけばいい。

 

その作業が進み、

その時にはおそらく

そう呼べなくなっているかもしれない

重石との接し方が変わると、

それと同じように今度は

周囲との関係も和らいでいきます。

 

また機会を見て、書こうと思います。

 

ー今回の表紙画像ー

『夕景_近所の公園より』