落ち込んだままじゃいけない。
抑鬱的な生活を続けちゃいけない。
怒られてばかりの仕事の仕方じゃいけない。
衝突してばかりの夫婦関係じゃいけない。
今が楽しくなくちゃいけない。
職場への文句や周囲の人への愚痴が
行き過ぎることの、
無益さと時間の無駄に気付き、
自分を変えていこうと気合を入れて、
自分にとっての
新しい働き方、生き方は何かを問い、
実践していこうとします。
自分の内側から、
自分を変えることで、
これまで取り込まれていた暗い世界が
明るく開けるに違いないと感じ、
ともすれば萎えそうな心を鼓舞して、
実践を続けます。
冒頭の5行は、
その際の気持ちの一端を示したもので、
私自身もまた自分に向かって
そう言い聞かせていた時期がありました。
その時の気持ちをもう少し正確に言うと、
その気持ちには底蓋があって、
その蓋を開けると、
本当のホントにそれでいいのか
今一つしっくりこない、
決して間違いじゃないと思うけど
本質のど真ん中かと言われたら、
ちょっとずれているような気がする、
そんな考えとも感じ方とも言えないものが
私の中にしっかりと存在していました。
これって、
頑張ることと何が違うのかな、と。
確かに、自分でそうしようと
選択したことではあるのだけど、
どこかに本音を偽った感覚が
拭えないような感じがあって、
それがある限り、
本当の意味での変化は
ありえないように思っていたのです。
ハタと気づいたのは
そのもう少し後のこと。
自分が行き詰って、
自分が苦しくて、
自分の生きづらさが
素の自分との乖離のためだと
理解したつもりなのに
それまでの
ただ受け身でやらされていた仕事や、
気に入らないと言いながら
離れられなかった人との関係や、
そういったものを取りやめにするために、
今度は別の基準によって
自分の気持ちを無視して、
お尻をたたき続けようとしている。
かつて、
お酒の力を借りたり、
世の中の評判にのっかったり、
メディアの情報に踊らされたり、
自分が抜きんでることばかりに
しゃかりきになったり、
会社の都合に翻弄されたり、
そんな状況に疲弊した身を悔いて、
今度はもっと“正しい”ことだから、
という“気づき”を実現するために、
自分の中で認められなかった気持ちを
大切にするために、
動けない自分を蹴っ飛ばすという、
“矛盾”した行動をしている。
早く結果が欲しいのかもしれないし、
どこかにまだ、
認めたくない自分があるのかもしれない。
新しい行動は「べき」ではなく
「そうしよう」という決意のはずが、
これまで慣れ親しんできた、
落ち込んだ感情、
動かない体、
淀んだ魂、
そう言ったものがもたらす体感、
心の重石ともなっている感覚、
そういったものを無視したり、
無理やり動かすことは、
本来の意味で
これから行おうとしていることと
かけ離れているし、
かけ離れているということは、
結果も望んだものから
かけ離れざるを得ない。
みんな一緒。
みんな大切。
みんな素の自分の一部。
否定することにした自分、つまり、
淀んでいたり、
重石になったりするのは、
その必要があったからで、
それを切り捨てたり、
無視したりして進めば、
確約してもいいが、
最後は自我がバラバラに砕けてしまう。
否定する自分のもう一つ奥には、
そうならざるを得なかったことが
あるのかもしれない。
心の底蓋の下にある
しっくりとしない感覚は、
それを伝えてきてくれます。
そしてその感覚こそが、
実は本当の意味での
私たちがより良く生きようとして
真剣になるが故に
暴走してしまうことの
ブレーキになっています。
よく心のブレーキを外そうというけれど、
心のブレーキには役割がある。
ブレーキになるのは、
無視し、認めず、遠ざけた自分が
重石となり続けているからです。
邂逅し、認め、一緒にいる、
自分の一部として受け入れる、
するとブレーキだったはずの存在が、
一緒になって動きだすようになります。
その結果、
もしかすると
今の職場にはいられなくなるかもしれない、
今の人とは別れることになるかもしれない、
今の街では暮らさなくなるかもしれない、
今の生き方は大きく変わるかもしれない、
それも含めて、
私たちが欲する、
自分が変わるということ。
自分が変わるということは、
素の自分、変えられない自分を受け入れて
一体として生きていくことです。
最後にもう一度。
みんな一緒。
みんな大切。
みんな素の自分の一部。
ー今回の表紙画像ー
『日没直後の富士山遠景』
昨日の続き。
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