ひとりになる病

日々の棚卸

最初の方のブログで、『独りでいること』と題して話をしました。

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お固い文章で長々と書いていて、我ながら誰がこんな長文読むんだろうと思いながら読み返してみました。まあ、言いたいことは述べてあるので、余力のある時にもう少しシンプルで読みやすい表現にしようと思います。

そこでも言っていることですが、

独りでいることは、自分で選択します。

独りでいることは、とても大切な時間です。

独りでいたいときは誰にでもあるし、独りでいることによってひらめきや落ち着き、静かに湧き上がるパワー、時には反省の心などが得られます。

独りでいることは、勇気がいる行為の時があります。昔ほどではないけれど、群れていることが何となく望ましい風潮が今もそこかしこで見られるからです。紀元前の昔から、取り残され感、見捨てられ感と折り合えずに闘ってしまう人がいて、自分を見失うことを繰り返してしまう。人によってはある種それほど敷居の高い行為であるようです。

もっとも、独りでいたくとも、例えば幼子を抱えていたりするとその時間を取れない方もいるわけで、これはこれでなかなか難しいことではありますが、5分でも10分でも時間を確保して体と心と神経を解放できるといいですね。

 

さて、独りでいることが自ら選択した行動だとすると、ひとりになること(なってしまうこと)はいかがでしょう。特にひとりでいたいわけでもないけれど、気が付くといつもひとりになっていて、そのことにとても不安と猜疑心を抱いてしまう。ひとりになってしまうことが気になるけれど、何かにつけて拒否されているようで、どうにも他者とつながることができない。あるいは、実際に何かと他者と衝突を起こして、いつもひとりになってしまう。

 

“心ならずも”ひとりになってしまう時というのは、誰しもあるでしょう。

そんなとき、ちょっと寂しいなと感じたり、誰かいないかなと会える人を模索したり、まあ今はいいかと仕事や家事や趣味に入り込んだり、それも難しい時には本や映画、ネットの世界でコミュニケーションを求めたりすると思います。もっとも、同行者がいるにもかかわらず電車内でスマホを見ている多くの人々(乗車客の7、8割がスマホを見ているのではないでしょうか)は、少々目的が異なるようにも思えますが。

しかし、その“心ならずも”が長く続いているのであれば、ちょっと考えてみてください。もし自分が望まないにもかかわらず、いつもひとりになってしまい、そのことに苦しんでいる人は、もしかすると『ひとりになる病』を患っていたりしないでしょうか。

 

いやいや、流れでそうなっているんだ、と言い訳をしたくなるかもしれません。

周囲がわかっていないんだと主張したくなるかもしれません。

自分はそう扱われても仕方がない人間なんだ、と思われているのかもしれません。

ですが、それら自体がすでに、『ひとりになる病』に罹っていることを示していると思うのです。

 

『ひとりになる病』は、症状としては他者とつながりたくてもつながれないことが続く中で顕在化しますが、その本質は自分とのつながりを見失っていることです。私の知人は依存症のど真ん中で、この言葉の意味に気づいたと言います。

自分の内側で、怯えていたり泣いていたり苦しみにのたうち回っている自分を、冷ややかな目で見ているだけではないでしょうか。もしそうであるなら、現実世界でも他者に対してそのように接していることが多いものです。周囲が大人であれば、群れの中にはいれてもらえるでしょうが、そこでその人が誰かと密につながれているわけではありません。

自分の体をモノのように見立てて、やりたくもないことをお尻をたたくように無理強いさせていないでしょうか。もしそうであれば、他者に対しても同じように振舞います。一見、丁寧だったり優しかったりしたとしても、長い時間の間に周囲もその雰囲気を感じ取ってしまうということは、あなたにも経験がありませんか。

文字通り殴ったり蹴ったりするぞんざいなイメージで自分と接してはいないでしょうか。もしそうであるなら、他者にも同じように接します。ひどい時には警察沙汰にまでなってしまうのは理由があるわけです。それが自分に向かった場合には、鬱や自傷行為、依存症にななってしまいます。

つまり、『ひとりになる病』というのは、(弱い、見たくない)自分自身との接し方そのものを意味しているということです。自分の中に存在するいくつもの自分の中で、自分が嫌いな自分を手ひどく扱ったり、見たくないと遠ざけたり無視したりしていることが、他者との関係の中で現実となって表れてくると思ってください。

そうなってしまう発端は、きっといろいろあったのでしょう。人間そんなに大差があるわけではないのに、一部の人々がそうなってしまう以上、そこには情動や皮膚感覚レベルまで浸みわたる不可抗力的なメカニズムが働いていたことは、推測が付きます。そのことについては、以前にも触れましたし、また形を変えて述べていこうと思いますが、詰まるところ、いかなる理由があってもそうやって生きていくことは苦しい、ということには変わりはありません。

繰り返しますが、『ひとりになる病』は、自分の中で自分をひとりにしているために生じる病です。そういう意味では、見た目がひとりであるかどうかは本質的には意味がありません。自分が何を望んでいるか、それがいつもその通りになるわけではない時に自分とどう接するか、ということです。

 

では、どうしたらよいか。

どうしたら『ひとりになる病』に対処することができるのでしょう。

 

一言で言えば、あらゆる自分とつながることです。

自分の中にいる自分とつながりなおすことにつきます。

そのために愛着を持って、原風景を蘇らせ、『どんな自分も』受け止め、寄り添い、慈しみ、二度と遠ざけないようにして“一緒に”生きていくのです。

 

『ひとりになる病』であるかどうかの判断基準と、どうしたらよいかのアウトラインを述べてみました。

折しも世界中がコロナウイルスによる対応に苦慮しています。私も自分ごととして受け止め、あまり固くならないように、出来る範囲で、たった一つしかないこの体と命を大切にしていこうと思います。

同じように、『ひとりになる病』は、一部の自分を見捨てたままにしておくと生まれる心のウイルスによってもたらされます。一度これに罹ってしまうと、対処が大変ですが、メカニズムがわかっているという意味ではまだ処方ができるものです。コツは、真摯に、正直に、自分を見つめ直すことです。

お互い、自分を大切にしましょう。

 

ー今回の表紙画像ー

『遊歩道から見た町の夜景遠景』