トラウマという言葉は、
臨床心理や精神医療で用いられる専門用語で
市民権を得た言葉と言っていいと思います。
トラウマ(Trauma)は、
過去、主に身の回りで起こった
心身へのショックに
悪い意味で捉われてしまうことです。
PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)は
心的外傷後ストレス障害と訳されますが、
これはトラウマが原因で、
日常の人間関係や心身の状態に
影響を及ぼすストレス障害のことです。
戦闘に参加した兵士たちの後遺症として、
よく引き合いに出されます。
NHKの『映像の世紀』で、
第一次世界大戦のヨーロッパ戦線において
塹壕に潜んで降り注ぐ爆弾を防いだものの
後日その音や衝撃が後遺症となって
体の震えが止まらなくなった
兵士の姿は印象的でした。
米国において、
PTSDという概念が一般に定着したのは
ベトナム戦争後の1980年代のことですが、
その頃には既に、
家庭内暴力と性的暴力の被害者が
呈する症状も
この概念に含まれるようになっていました。
私が心理カウンセラー(アドバイザー)の
資格を取得した1つの機関では、
(当時は)
ヒステリーを題材とした精神医療と
メスメルやシャルコーの催眠術の歴史を
長々と聴講する時間があったのですが、
これらはPTSDの概念に通ずる
研究の潮流の一つとして解釈されています。
ごたごたと書いてしまいましたが、
ここで扱うトラウマは
過去に起こった出来事に今も自分が捉われて、
体が震えたり、
心が痛みでうずいたり、
行動が自然に停滞したり、
無力感に陥ったりして、
やたらと自暴自棄になったり、
暴力的になったり、
といった症状の根本原因として
過去が現在を不都合な状態で
支配してしまうこと、
と考えてください。
アディクションの対象が日常の些細な行動、
範疇としてとらえるようになっている、
つまり、
テレビを見続けたり、
お菓子を食べ続けたり、
ひたすら運動に没頭したり、
週末はひたすら家に引きこもったり、
といった一見害のないことであっても
素の自分を受け入れられていないが故に行う
自尊心の仮初の付与の意味合いがある
あらゆる行動までを対象にしている
のと同じで、
トラウマもまた
そういった日常のさりげない出来事や、
ネグレクトのように、
地味ながらもダメージを受け続けた結果まで
含めて考えてよいと思います。
これは当時の私自身が陥っていた状態でも
あるのですが、
自分の心が狂ってしまうのではないかと
感じるほどの
どうしようもない怖さ、
悲しさ、
苦しさ、
怒り、
焦燥感などを
後々までもたらす元になっている
昔の出来事に対して、
トラウマとして受け止めているとき、
これ、
つまりトラウマを
絶対的な存在のように扱っていることが
あります。
それほどに、
診断の言葉はそれ自体が
逆に当人をその場所に
固定してしまいがちです。
このトラウマで私は
何もできない、
身動きが取れない、
そう感じること自体は
仕方がないのかもしれません。
でも、実際にはどうなのでしょう。
確かに、
元気だったころに比べれば、
動く量も
動く速さも
動く積極性も
それらを司る意思も
心の動きも
どれもが沈滞的で、
本当に反応しないような状況もまた
あると思います。
トラウマは、目に見えない基準です。
トラウマは、あった、なかった、
という受け止め方が一般ではないかと思います。
トラウマがあって
動けません、
できません、
という場合、
そこに、
『どこまで』動けないのか、
『どこまで』できないのか、
を一度自問してみてほしいと思います。
スタンダードになりつつある
メンタルクリニックや心療内科で、
「あ、それはPTSDですね」
とか
「その症状はトラウマと言うんですよ」
などと診断を受けて、処方箋を渡されると、
クライアントも
「そうか、自分はトラウマを抱えているんだ。
お医者さんも言っているんだから
今のこの自分が動けない苦しい状態は当然だ」
と何もしなくなったりします。
もちろん、
診察を受けた専門家とは
きちんと相談しあった方がいいし、
休めるのなら、
きちんと時間を取って休んだ方がいい。
でも、
トラウマだから
何もできない、
ではなくて、
トラウマの程度に応じて、
動くこと
を実践することを
あえて提案させていただきます。
診断が下った後、
最初の数日は寝たきりになったとしても、
ほんの少しずつ、
朝起きる、
散歩する、
食事を作る、
出会った人に挨拶する、
電話をする、
洗濯をする、
人と会う、
風呂に入る、
短い時間働く、
軽い運動をする、
…………
何でもいいんです。
その時にできる“ささやかな”ことを
一つだけ考えて実行することを
柔らかく、
優しく、
ほんのちびっとだけ無理をして、
「試して」みてはいかがでしょう。
ほんの少しなら
できることはあると思うのです。
トラウマの程度によって、
弊害の度合いもまた変わります。
トラウマが日常生活へ及ぼす影響は
0と1で分けるものではないと思うのです。
抑うつ症状も同じですが、
私たちの心と体という自然の産物が
元来アナログであるのだから、
そこに生じるトラウマもまた
アナログ量で受け止めることで、
症状を表す言葉でひとくくりにされて、
何もしないために
ますます身動きが取れなくなるような状態を
回避することができるはずです。
骨折の後、
インフルエンザの後、
手術の後、
正しい状態を把握して、
少し休んだら
リハビリを始めて、
徐々に体を慣らしていきます。
トラウマからの脱却も同じです。
先に、トラウマもアナログ量として
受け止めるべきだといいましたが、
アナログという言葉は、
“程度”と言い換えてもいいでしょう。
トラウマの“程度”
抑うつの“程度”、
そういったことです。
その解放の仕方は、
自分を無理やりけ飛ばしながら動くのではなく、
“程度”に応じて自分と相談しながら、
その時にできることを、
ほんのわずかでいいから、
ほんの短い時間でいいから
やってみることです。
やがてそんな時間が過ぎ去った後に
自尊の感情と自信とを感じるように
なるでしょう。
ー今回の表紙画像ー
『雨の川』
梅雨入りだ。
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