怒りを感じることと素の感情を大切にすること

日々の棚卸

 

素の感情を大切に。

よく耳にする言葉だと思います。

確かにいつも笑っていられれば、

いつも澄ましていられれば、

いつも気持ちよくいられれば、

それにこしたことはありません。

でも、人間だから、

怒ったり泣いたりします。

 

素の感情を大切にするという言葉は、

誰もが知っていて、

誰もがそうしたいと願いながら、

誰もが実践は難しいと

知っている言葉。

 

怒りの感情を例にとると、

誰もが必ず怒りを感じる時が

あると思います。

ありません、という方は、

きっと徳の高い方だと思いますが、

私はまだそういう方には

お目にかかったことはありません。

ともかく、怒りの感情は

人生で避けて通れないものです。

そんな怒りの感情が湧いたことを

感じ取った後、

どのようにすればいいのでしょう。

出し方を間違えれば、

とんでもないことになってしまう

怒りの感情は、

他の感情とは一線を画して、

扱いがシビアな感情だと思います。

 

怒りがわいた瞬間に行動に移すか、

否認して抑え込むかする人がいます。

前者の人は、

げんこつを登場させないまでも、

怒りを生じさせた(と本人が感じた)

相手に向けて、

ドカンと言葉を炸裂させます。

あるいは、じわりじわりと

相手の非を指摘するように

締め上げようとします。

上司のように自分より

立場が強い相手の場合には、

ぶつけやすい別の相手に

発散を求める人もいます。

いずれにしても、

火の粉が降りかからな距離に

いたいものです。

後者の人は、怒ってない、と否認します。

あるいは、

自分が悪いのだからと

自身に怒りを向けます。

これが進むと鬱が始まります。

感情鈍麻がおこり、

日常が磨りガラスの向こうに

あるように感じられます。

あるいはそうなる代わりに、

思いもよらないところで

人を攻撃したり、

意味不明のおかしな行動を

とるようになります。

 

もちろんその人の気質もあるでしょうが、

感情は私たちがその時までに

紡ぎあげてきた世界観に沿って

湧き上がる部分があると思います。

私たちが、人を、世界を、人生を

どのように捉え、

それに対して自分はどんな存在か、

という自己の受け止め方によって、

同じ事象に対しても、人によって

湧き上がってくる感情は異なります。

そういう意味では、

私たちに生じる感情とは、

その時々で精一杯生きている

自分の分身として

出てきてくれた大切な存在です。

自分の一部です。

感情は素直に感じるとき、

私たちにとってのリアルです。

同時に、私たちにとってのリアルは、

他者にとっては

バーチャルな存在でもあります。

だから、自分の中に沸き上がった感情を

しっかりと受け止め認めることと、

それを相手に向けて放出することの間には、

天と地ほどの開きがあり、

だからこそ、

表現(表現しないことも含めて)には

細心の注意を払う必要があるのです。

怒りが湧いた相手が強いからといって、

ヘコヘコ頭を下げることが

卑屈ということはありません。

(というより、相手によらず、

頭を下げることは

別に恥ずかしいことではないですしね)。

自分の感情を大切にし、

自分を大切にするとは、

湧き上がった感情をしっかりと認識し、

自分自身の心と体を傷つけることなく、

自分に最も有利な出し方というものを、

計算してもよいことです。

計算するというと、

腹黒さを感じるかもしれませんが、

そういう意味での腹黒さ、計算高さは

とても大切なことなのです。

 

怒りを例に取り上げましたが、

哀しいとき、落ち込んだときも

同じです。

私たちの体は、

文字通り感情の境界線です。

素の自分を感じ切ること、

素の感情を認めること、

これを境界線の内側で

しっかりと行いましょう。

体の外に出す時、表現するときは

とにかく自分に最も優しい方法を

選択することを試みてください。

 

最後に、怒りの表現についてもう一言。

ある方から聞いた言葉です。

『正しい怒りは存在しない』

日常生活の中で、

怒りに囚われ、

あるいは爆発させる愚に対する

戒めの言葉だそうです。

感じた怒りを、自分が前に進むための

建設的なエネルギーにするためには

自分にとってどんな方法があるかを

考えられるようになると、

怒りの感じ方もまた変わってきます。

 

そんなことを考えてみました。

 

ー今回の表紙画像ー

『町のお月様』

夕方買い物に出かけて3階の駐車場に戻ってきたら、きれいなお月様が出ていました。