自分をモノ化してないか

日々の棚卸

 

心のことを学んだり、

自分と向き合うことを

しっかり繰り返していると、

 

あからさまに自分のお尻を

蹴り続けたりすることが

なくなります。

 

自分のお尻を蹴る、とは、

本来、心も魂も持っているはずの

自分という存在を、

 

まるで牛や馬のように扱うことです。

 

餌を得ることで飼いならされた動物と

同じように自分を扱うことが、

 

その場しのぎの成果を出すためとはいえ、

どれほど自分を貶める行為かは

よく考えずともわかるものです。

 

自分と向き合い続けることで、

多少なりとも自分を叱咤することなく、

ある種緩やかにコントロールしながら、

 

家族と接し、

仕事をし、

上司や同僚に気づかい、

人目を気にし、

感情に溺れないように

なることができます。

 

そう、感情、

それも怒りや恨みや抑鬱や卑下などの

負の感情が暴走して、

 

自分を苛み、絡めとられる感覚が、

霧が晴れるように薄らいでいく

感覚になるのですね。

 

別の言い方をすれば、

何か根本的な混乱、隔離から

脱したような気になる、

というところでしょうか。

 

どこかでも述べましたが、

私たちの自分という存在は、

複数の自分たちから成っています。

 

それを緩やかに問うどうして、

あたかも一つの人格であるかのように

思い込んでいるのが、

私たちという存在です。

 

自分としっかりと向き合うということは、

 

そんな複数の自分たちがばらばらに

自己主張している中で、

 

そのうちの一人が強くなりすぎて

暴走していた所を、

他の様々な自分たちと相談しながら、

 

感情も、受け止め方も、言動も、

選択しなおした結果だから

当然なのかもしれません。

 

そうやって良くなってきた自分が、

 

なぜか、ある頃から、

以前の苦しさ、生きづらさが

地味に戻ってきて、

 

“また”日常を支配するようになった

感じがすることがあります。

 

あれれ、と思うのだけど、

気がつくとそうなっていたのだから、

 

おかしいな、と訝りつつも、

もう一度、

感情に暴走されがちな自分を見つけ出して、

コントロールしようとするのだけど、

 

以前のようなあからさまな暴走が

感じられるわけでもないので、

 

なぜこう息苦しさを感じるのか、

なぜこんなに焦りや憤りを感じるのか、

なぜこれほど“そこ”に居るのが辛いのか、

 

と感じるようになったりします。

 

成功とか、うまくいくとかいう感覚が

せっかく戻ってきたところだったのに、

おかしいな、と感じるわけです。

 

良くなってくるプロセスで、

もしかしたら、

 

何か方法を無意識のうちに

変えてしまったのか、

 

やることをやっていなかったのか、

 

と振り返るのだけど、

 

あれをやってこれをやって、と

思い出したところで、

思い当たる節もないのですね。

 

 

最初に、自分のお尻を蹴るという表現で

自分を家畜扱いする、と申し上げました。

 

次に考えることは、自分自身のモノ扱いです。

 

自分という存在は当然ながら、

モノではありません。

 

デジタルな存在でもありません。

 

これも最初の方に、

「自分を叱咤することなく、

ある種緩やかにコントロールし」と

書きました。

 

「緩やかにコントロール」

という言葉を実践するプロセスで、

 

自分に対して、

宥めるように、

 

あるいは、

 

大切な人に向けて

優しく、柔らかく、真摯に接するように、

 

心の中で声をかけ、

抱きしめ、

親身になって、

 

“一緒に”次はどうしようか、と考える。

 

そこにあるのは、

行為とか心の中の声掛け、

 

『ではなくて』、

 

その前提となる“想い”です。

 

何を当たり前のことを、

と言われるかもしれませんが、

 

灯台下暗し、

 

いつしか、

“機械的に”“作業するように”

様々な心の中の動きを含めて、

行われるようになっていないでしょうか。

 

心の中の声掛けも寄り添いも、

それが機械的になると

明らかに効果は落ちます。

 

それは想像に難くありませんよね。

 

生身のアナログな存在の私たちは、

常に温度を求めます。

 

温もりです。

 

寄り添うことにより、

自分を認めて一緒にいてくれる誰かがいる、

という安心です。

 

時に疲れていたり、億劫になったりして、

つい自分が“モノ”

であるかのように、

 

自動的、機械的に接するときは

誰にでもあるのかもしれません。

 

しかし、『戻るべき』は、

コントロールの前提たる

『温もり』であり、

『親密さに基づいた寄り添い』です。

 

その意識付けと言うか想いを

根底に置いたコントロールこそが、

自らの回復を促進させます。

 

同時に、その“想い”に基づく

継続した行動も必要です。

 

それも、自分のお尻を蹴らないように。。。

 

自分へ接し続けるとともに、

人と繋がることを続けていると、

自分の内的な調整がどのような状態にあるか、

実情を知らせてくれます。

 

自然と繋がること、

それが自分の中の調整を

サポートしてくれます。

 

自分と繋がり、

人と繋がり、

自然と繋がる。

 

言葉にすると、

何だか当たり前すぎるように

聞こえるかもしれません。

 

でも、自分をモノ化して接するところに

陥らないための、

ささやかなコツのようなものとも言えます。

 

頭の片隅に置いておき、

それらをリラックスして実践すること、

最後はそれに尽きるのでしょう。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『大倉山より南を見る』

 

大豆戸交差点。

この30年、変わってないなあ。