私たちは、
生きるために、
体(個体)を維持するために、
食物を食べ、
水分を吸収する必要があります。
保温のために衣服を必要とします。
雨風を防ぐために住まいを必要とします。
安心し、安全に暮らしていける環境を
必要とします。
働いて収入を得る大きな目的の一つは、
それらを確保することです。
少なくとも、庶民と呼ばれる人にとって
近代社会が発足してしばらくまでは、
そうだったと思います。
体が不自由だったり、
精神的に参ってしまったりした方のために、
もっとセーフティネットを充実させてほしい
と切に思いますが、
何とか動くことができる人にとっては、
働いて稼ぐ目的は、
最低限の生活を確保することが
根本にあるはずです。
マズローの五段階欲求説の中で、
衣食住や安全安心の確保は
下位2層に属しますが、
その上になると
社会的な関係性が大きくなってきます。
社会的欲求、
承認の欲求、
自己実現の欲求
(超越の欲求を加えて六段階とする方もいます)
を求めることができる社会は
自由度が大きといえますし、
実際、それらの欲求は、
努力、知恵、機転、お金、学校、会社など、
どんどん求めていくことができる
ことを意味します。
少なくとも、そのとっかかりについては
誰もが得られるようになっている
ということはできます。
これは、仕事ばかりではなく、
恋愛から階層や型がなくなり、
際限のないファッションの選択なども
同じことだと思います。
実はここに、
人によって、
あるいは家族によって、
大きな、
とてもおおきな勘違いが
生じたりします。
私たちが欲求を求める原動力、
駆り立てるドライブフォースについてです。
要するに、何をもとに
それらの欲求を求める力を得ているのか、
ということです。
私はそれを、愛着と考えています。
誰もが、そこにあるつながりをもとに、
自分の持つ可能性を追い求めているのです。
精神科医の岡田尊司先生は、愛着を
『人格の最も土台を作っており、
仕事や人間関係、
人生に対する姿勢にも影響する』
と言っておられます
(『愛着障害 子供時代を引きずる人たち』光文社新書)。
多くの精神疾患と分類される症状もまた、
ここに帰依するということまで
おっしゃられている。
この話を読んだとき、
かつてメンタルクリニックで接した多くの患者さん、
相談してくれるクライアントさんのことが
思い出されました。
アドバイザの勉強をしている折、
メンタルクリニックの付属機関で、
疾患の分類として学んだ知識をして、
多くの人が特別に異常だとは
感じられなかったのです。
そういう意味で、
何でもかんでも精神疾患に分類してしまう
今の精神医療にはいささか怖さを覚えます。
話を元に戻しますが、
欲求は根源的な意味での生命力です。
親は子供の命を守るために、
衣食住と安全を確保しようとします。
共同体も、組織も、国も、
実際の効果がいかほどかはともかく、
それらをできるだけ多くの人に
もたらすことができるように動いています。
少なくとも動こうとしています。
さて、そこから、
衣食住や安全の
より確実な保障を求めているのか、
すでにその先の欲求を
子供や夫(妻)に託しているのか、
それによって話は異なってきますが、
より上の、より優れた、より名の通った、
学校、会社、容姿、収入、地位、
そういったものを目指すようになる中では、
私たちはともすれば、
水や空気と同じように、
愛着を、
いつも、
いつまでも、
どこにでも
あるものであるかのように利用し、
それをもとに自分たちを鼓舞し、
勢いづけ、突っ走ろうとします。
そのとき、
とても負荷がかかっているのは
愛着による人の結びつきの力です。
どんな強力な結びつきであっても、
それは人という種が紡ぎあげた
家族という幻想のもとで出来上がった
“信”の力です。
“信”とは、
信頼、信用、信じる、信仰、確信
といったもので、
家族はそれを拠り所に、
そして許される範囲で、
それぞれが自分の望む生き方を
実践していくものです。
しかしそこに、
明らかに当人の意志を無視した
強制性が働いたり、
一緒にいる意味を疑う言動が
続いたりすることで、
夫婦や親子の関係が歪んでしまい、
その関係が時間とともに蝕まれていったり、
破綻したり、
形だけは残ったとしても、
子供が社会に出た後で直面する
生きづらさに出口を見出せなかったり、
といったことになりがちです。
先の述べたように
愛着関係の浪費、破壊行為が行われた結果だ
といえると思うのです。
永遠に続くものがないように、
どんなことをしても
当たり前にあり続けるものもありません。
多くの人はそれを恋愛(失恋)から
学んではいるのではないでしょうか。
自由な社会、
予測できない未来、
価値がうつろいやすい世間、
安定や安心を仕事に求めることが難しい現在、
私たちはそんな時代に生きているにもかかわらず、
多くのものが固定されていた頃の決め事をもとに
自他の言動に強制性を働かせ、
結果として愛着を見失ってしまっています。
父親とは、
母親とは、
男とは、
女とは、
夫とは、
妻とは、
大学とは、
出世とは、
地位とは、
自慢とは、
国家とは、
結婚とは、
そして、家族とは…。
わからない、
予測できない、
無知、
そういったことを先を行く者が
自分に対して受け入れないことには、
これからも強制性の発揮と
愛着の歪みや破壊をもたらし、
それが私たち一人一人に必要とされる
“つながり”をも失っていくことに
そろそろ気づくべきではないでしょうか。
バブルがはじけたころ、
それまでの固定した価値観と生き方に
大きな疑問が呈せられ、
世の中は変わるんだろうな、と
若い私は感じたものでしたが、
半世紀生きた後の実感として、
実は変わったほうが良いにもかかわらず、
変わっていないものが、
ずいぶん残っているな、と感じています。
私は、心理カウンセラーとして
相談を受けることをしていますが、
その場でできること以上に、
根っこの部分で社会の変容が必要である、
それを促すためには、
愛着の観点から生き様、人生を見つめなおす
必要があるのではないか、と考えています。
今、愛着が試されているのだと思います。
ー今回の表紙画像ー
『真鯛寿司と潮汁 本日の夕飯より』
魚屋で目に入ったので買って捌いた。さすがに釣りたてほどではないけれど、やっぱり真鯛はうまいです。潮汁もまた格別。
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