後ろを振り返ろう!

日々の棚卸

私のIPODには、前世紀から今世紀初めにはやった歌が多数入っている。プレイリストには、その時代ごとのお気に入りを、言葉の意味はかなりずれるものの、Oldies1から10と銘打ったフォルダ名をつけて分類してあり、今もちょっとしたお出かけの折にそれらを聴いて楽しんでいます。世紀末前後の作品が多いけれど、最近の曲はもちろん、なんと小学生の頃に聴いた曲、それもリアルタイムで聴いた覚えのないものまで入れてあり、ジャンルも様々。内実はご想像にお任せしますが、iTunesの中を整理しているときなど、ディスプレイに表示される曲名を目にしながら、他の誰がどう選択してもこんなラインナップにはならないだろうな、と思いつつ、何とも自分らしいとも感じています。

時代を遡るほどに、愛だ恋だとうたった曲が多くて、確かにえらくませた子供だったなあとちょっと恥じいです。だいたい、10歳に満たない頃など、歌詞の意味も知らずに風呂場で大声でうたっていた記憶があって、今では恥ずかしくて絶対にできそうもないし、まずやらない。

 

歌の話がしたかったわけではないけれど、今回の話の流れのとっかかりだったので、少々前置きをさせていただきました。お題は、何かを目指して、あるいは何かを振り切るために、後ろを振り向かないで、ということについてです。

 

失恋、すれちがい、挫折、絶望。

人の関係も、物事を進めるときも、何かとうまくいかないことは誰にでもある。そんなとき、脳裏によみがえってくる「後ろを振り返らない」「明日が待ってる」「いつまでも落ち込んでないで」といった言葉たちがいませんか。時代も曲調も様々だけど、素敵な曲がたくさんあって、どれも共感できるものばかり。私もまた子供の頃から身近に聴いていたし、時には勇気づけられたこともありました。

前向きな感覚は、それが自分の中で有効に機能するのであれば、とても素敵なことだと思います。一方で、そういったことだけではうまくやっていけないという心の声に従うこともその人なりの処世術だから、それもまたあっていい。要するに、前を向こうが立ち止まろうが、自分が自分なりに自分と相談して決められるのであれば、そしてその決めた心づもりで日常をやり過ごせるのであれば、それに越したことはないと思うのです。

 

しかし、世の中には、眦釣り上げて頑張って前向きに生きていこうとして、どうにも行き詰ってしまっている少なくない方々がいらっしゃるようです。馬車馬どころか、ばんえい競馬の馬のごとく、凄まじく重い荷物を当人だけにしかわからない理由で背負いながら、同じように当人が決めた決めごとをこなし続ける様は、ある種凄惨な感じさえ漂っています。人付き合いもこなそうとするから笑顔を見せることもあるのですが、よ~く見るとその目は計画を遂行することに向いていて、どこかあらぬ方向をにらんでいるかのよう。

本当に、それをしなきゃいけないのか、と一度でいいから問うてみればいいのですが、どうもそんな余裕もないようです。世の中は、自分の見たように見えるのは当然で、私がそういう方々と縁があると感じるのは、かつての自分と似たような方々に親近感を覚えるからなのかもしれません。

 

行き詰っている・・・。

この言葉が妥当な方もいれば、そんな生ぬるい表現では済まない状況にある方もおられるでしょう。

前向き、ポジティブ、笑顔。

確かに一度は試しておいた方がいい。私たちは、たとえ自らが後から作り出した見せかけ的なものであっても、そういった外的要因に気持ちが引っ張られて、あたかもそうであるかのような気分になる側面を持っていますから。

中には、そういったことを“修得”するために、心に関する多くの本を読んだり、自己啓発セミナーに出かけたりして、何とか自分をよくしようとして試みてみた方も多数いらっしゃると思います。巷では、そういった行動を無駄と切り捨てる心の専門家もおられますが、それらを経験した身から言わせてもらえば、その試み自体決して無駄にはならないはずだ、とも申し上げておきます。お金と時間がかかってしまいますけどね。

 

ただ、もし、そうやって行き詰ってどうしようもない状態に陥ってしまっているのなら、次の方法を試してみませんか。実施することは大きく2つです。

最初に、自分を受け入れる、と決めること。自分なりに悩み、行動して自分をよくしようとしてきた自分自身を認め、よくやったと「くどいほどに」何度もいたわってあげてください。最初は嘘くさく感じるかもしれないけれど、その感覚は自分のやってきたことを正当にわかってあげていない印なのだから、繰り返し繰り返しよくやったと言ってあげることです。これは、騙されたと思って、本当に何度もやってほしい。よくやった、という言葉も、あなた自身の皮膚感覚と心の感じ方にしっくりくる表現に置き換えてみることをお勧めします。

 

そしてもう一つ、とても大切な、一度は封印したこと、つまりしっかりと後ろを振り返って過去を見つめ直してみてほしいのです。

いろいろと試してみたにもかかわらず前へ進めない、行き詰ってしまうのは、それを推進する力に対して強力なブレーキがかかっているからでしょう。アクセルとブレーキを同時に踏み込んで、ガソリンばかり消費して臨む方向へいけない自動車のような状態になっているのなら、前に進む時にはブレーキペダルにおいた足を外すようにしておいた方がいい。ブレーキ、それも強力な効き目に相当する、膨大なスケールの“心の重り”を、まるで足腰を鍛えるスポーツ選手がタイヤを引きずってダッシュをするように、引きながら歩もうとしているのだから、これはうまくいかなくても不思議でも何でもありません。もう少し言えば、この“心の重り”に相当する何か、が、今のあなたの目指す目標を生み出していたりすることもあり得るのです。そして、そのための決めごとに“今”を費やし続け、走り続け、ガス切れを起こし・・・。

未来を決めて、今を歩み続けようとして、これほどまでうまくいかないのであれば、しっかりと後ろを振り返っておきましょう、と申し上げる意味です。

後ろを振り返る、とは、過去を見つめ直すことです。トラウマという文言を当てはめるかは当人次第ですが、問題の質が何であれ、過去と対峙することについてはあちこちで説明がなされています。虐待や放置、孤独、嘘など、幼少期ばかりでなく少年少女期や社会に出てからの出来事だったとしても、それらが原因となって現在を束縛してしまうことです。ここでつらつらと書かせていただいた今の自分の行き詰まり、つまり“心の重り”に思い当たるところがあるのであれば、しっかりと向き合って自らを抱きしめることが必要です。

ですが、先に『過去を見つめ直す』と表現した通り、ここで申し上げたいのは、その哀しい、苦しい、残念な、残酷な記憶の隙間、あるいはもう一つの場所にある時間とシーンをきちんと見るように心がけようということです。

苦しい、哀しい感情との対峙がスムーズにいかないと(中々いかないものですが・・・)簡単には認められない(認めたくない)類の感情ではありますが、自分の過去の素敵だった時間、愛おしい日々、ずっと自分の中に留めておきたいシーン、そういったいつもこのページで述べている自分自身の“原風景”もまたきちんと自分の記憶として、あるいはもう一人の自分として認めてあげよう、ということです。

ですから、後ろを振り返る時、あの頃はよかった、それに比べて今は、という接し方にならないようにしてください。これは、行き詰まりを助長するための見方、言い換えれば、自分の行き詰まりは誰か他の人が解決することだ、という、無責任な三ケ田だからです。つまり、過去を正当に見つめ直していないがゆえに現在の状況を起こしてしまっている、言わば、ウルトラビッグミステーク!なモノの見方なのです。

思い通りの人生にはなっていないかもしれない、それでもよかれと目的をもって計画を立てて日々奮闘して、それでも行き詰ってしまっている・・・。だから、もうあの頃のようにはなれないし、うまく行かないし、最悪の場合にはもう終わりだ、などと思ってしまうかもしれません。

それは、見方が逆なのです。

あなた自身が抱えてきた過去、その負の部分は他者にはわからない、あなただけの足かせかもしれません。にもかかわらず、今こうやって生きている、その支えこそが、あなた自身が見ていない、あなた固有の原風景なのです。あなた自身がその存在を認めていない時にもずっと、あなたの、それこそ今にも頽れそうになっている“今”を支えているのです。決して、目的、や、計画、決めごと、が支えているわけではありません。

 

良質な部分の過去をしっかりと見つめ直し続けると、実はそれらがあなたの人生を土台から支えてくれていることを実感できるようになります。その時には、目的なり夢なりはもっとあなた自身にそぐう形になっているでしょうし、もっと軽やかに日々を歩めるようになっているはずです。

 

当たり前ですよね。

 

苦しい、哀しい過去ばかりクローズアップして、声に出さないまでも、重いよ~、へばりそうだよ~と生きていたのが、嬉しい、楽しい、幸せ、という感覚を味方につけることになるわけですから。

過去は、今をあきらめるための道具ではありません。過去はいつだって、あなたを勇気づけるために存在しています。

・・・・・そういえば、どっかのホテル王が、全ての過去を未来へつなげ、とか言ってたなあ。