巷でずっとよく言われている、
本当の自分と出会うということ。
随分悩みました。
本当の自分。
もっともらしいというか、
それこそが答えだと言わんばかりに
蔓延している気がします。
結果として、ときどきそれが、
良くなりたい人々を
混乱させてしまっていることがあります。
伝える側は、そんなつもりは毛頭なくて
今抱えている困苦を、読み手や聞き手が
少しでも無理なく乗り越えていけるように
述べているのだと思います。
あるいは、伝えている方自身が、
“本当の自分”を生きてきたから
今の自分があるんだ、という
達成感とつながった
経験というか自負のようなものが
あるのかもしれません。
なので、本当の自分という言葉。
受け止め方を間違えないようにして、
大切なことを逃さないようにしたいものです。
“本当の自分”。
それは、
本当ではない自分とは何かを考えると
わかります。
本当ではない自分。
本当ではない……。
……………。
生きている自分全部だ!
というところまで追い込まれている人は
そんなにいないかな。
そう思い込んでいる人は
結構いると思います。
実際のところ、
本当ではない自分とは、
思い出したくないような言動を
人前でしてしまった自分のこと、
つまりその言動の出方に納得していない
そんな自分のことではないでしょうか。
とはいっても、
思い出すにつけ、
格好悪い自分。
うだつの上がらない自分。
のろまで愚図な自分。
みっともない自分。
惨めな自分。
目をそむけたくなるような自分。
吐きそうになる自分。
頭を抱えたくなるような自分。
何かと腹を立ててしまう自分。
いつまでもくよくよしている自分。
イライラしてばかりの自分。
……。
こんな表現が際限なく並んでしまったとして、
こんな自分は嫌だな、
好きじゃないな、
という人はいても、
それだけで“本当の自分”じゃない、
という人は少ないと思います。
そうではなくて、
本当ではない自分とは、
これらの性格というか特徴が
“思いもよらず”
発動してしまった…
・上司に(心にもなく)こびへつらってしまった。
・上司を(我慢できずに)怒鳴りつけてしまった。
・知人の態度にブチ切れてしまった。
・意に沿わない人の言動の上げ足をとった。
・人の輪にとけこもうとへらへらしてしまった。
・皆が自分を嫌ってるように感じて友達も恋人も遠ざけた。
・気が付いたら口から嫌味が発せられていた。
・友達の心無い言葉に関係を断ってしまった・
・こんな人生生きていたくないと自暴自棄になって
アルコール浸りになったり、手首を切ったり、
借金を重ねたり、薬物に走ったり…。
どうにも自分で自分を制御できず、
心にもない振舞いをして、
それを後(直後も含めて)から振り返って、
自分で納得できないことを
重ねてしまっているほど、
これは自分が言いたかったことじゃない
これは自分がしたかったことじゃない
つまり、
本当の自分なんかじゃない、
と思うんですよね。
確かに、ある意味、
“本当の自分”なんかじゃないのかも
しれません。
本当の自分というより、
“そうでありたい自分”
ではない、ということですよね。
だとすると、
“そうでありたい自分”
とはなにか、を知らないことには、
“本当の自分”じゃない自分が
ずっと続くことになってしまいます。
はてさて、“そうでありたい自分”とは
いったいどんな自分でしょうか。
クライアントの皆さんが抱える
主訴、訴え、悩みは
だいたいが的外れだったりします。
どうにかしたいこと、
何とか改善したいこと
治してしまいたいこと。
的外れと言ったのは、
もしそれが本当に治したい
根本の部分であるのなら、
本人が願えば治るからです。
この悩みが解決したら、
ボクは、私は、もう間違いなくハッピー
なんて言えるのであれば、
きっと本人の力で治すことができるものです。
あるいは、
ちょっとしたコツをこちらが伝えれば
それほど時間がかからず治ります。
ですが、往々にしてその訴えや問題は
その裏側にもっと根深いルーツを持っていて
それが手を変え品を変え、
いろんな場面で表現されているのだから、
そこにメスを入れるしかない。
多くは家族や親との関係に端を発しますが、
ここではその追及はさておき、
これまで感じてきたことをひっくり返して
いただくことを切に提案します。
つまり、
どんな自分も本当の自分だ、
そう現実をまず受け入れることです。
あなたの価値観や理想とは
かけ離れていて、
誰かや何かがそうだったから
と思うかもしれませんが、
理由はどうあれ、
それは全て本当の自分です。
好きでもない仕事をしているから
むっつりして、
好きでもない人と付き合っているから
いい加減に会っていて、
そんな自分は本当の自分じゃないかと言えば、
それも本当の自分だということを、
しっかりと受け止める必要があります。
あの自分も、この自分も、どんな自分も
自分そのものだ、
格好悪いけれど、
みっともなかったけれど、
決して褒められたものじゃないけれど、
不細工だけれど、
不格好だけれど、
とにもかくにも、
それらを全て自分自身だと真摯に受け止め、
本当は“本当の自分”の自分に
これまで無視してきたこと、
自分じゃないと虐めてきたこと、
嫌いだと遠ざけてきたこと
を謝り、
苦しい中でよく生き残ってくれたと
感謝し、
これから一緒に生きていこうと
約束してあげてください。
そういう話をせずに、
今の自分は嘘の自分、と言って、
仮にこんな生き方してしまってる自分、
という認識は、
実は自分を貶めていることに他なりません。
自分を受け入れる、は、
自分が選択して、
今の自分をやっている、
でも、きつい、苦しい、哀しい、から、
あるいは、
他にしたいことがある、
使命がある、
やるべきことがある、
など何でもいいから怖いけど、
今の生活を変えます、
と言って、変化していくんです。
面倒です。
怖いと思います。
でも、自分を貶めていいことは何もありません。
私たちの大切な自分は常に、
わかる範囲、思いつく範囲、動ける範囲で
ベストを尽くしています。
それがたとえ、
表層意識ではちゃらんぽらんに
他者に迎合していたとしても、です。
だから、
こんな日常なら、
もっともっと生きていたい、
この世界にいたい、
そういうものを探していきましょう。
私たちが求めているのは、
素の自分と、
素の自分で生きていけること
ではないでしょうか。
もちろん、これは掘り下げていくと
究極は赤ん坊になってしまいます。
ですから、
ほどよいところまで成長した大人の自分が
素の感覚で生きていけるような
歩み方、モノの見方、自己の捉え方を
身に着ける必要があります。
ただ、自分の本質に基づいてそれらを
行うためには、
その前段階として、
自分が何者で、
つまり、
どんな格好悪い自分で
どんなみっともない自分で
どんな情けない自分で
と言ったような自分を知った上で
受け入れていかないことには、
身につくものもつかないでしょう。
ただ叱られてばかりで、
ただ嫌味を言われてばかりで
ただみんなから嫌われていると思い込んで、
それらを肝心の自分がもっとも嫌がっていたら、
何かできると思いますか?
人生を変えていく、最初にして最大のコツ。
それがどんな自分も受け入れていく、
ということです。
ー今回の表紙画像ー
『列車の車窓から』
夕景がきれいだったので撮ってみた。
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