あるはずのない答えを求めて、随分彷徨っていた時期があった。『正解』がほしかったのだろう。何に対する正解かさえまともに考えずに、ただ昔はあったはずの何らかの答えを探し求めていたわけだ。
『正解』はあるにはあったが、拍子抜けするほど地味な連なりを見せて、「ま、そういうことで」という感じでいつの頃からか自分のそばにいてくれるようになった。正確に言えば、答えはあるはずのところではなく、あちらこちらと彷徨う自分の独りよがりな考えや滑稽さを受け入れること、自分を大切にする想いを継続して実践することなど、「いつも」すぐそばにあった、という感じだ。
こういうと、難しく考えたり、あくせく努力したりするんじゃなくてのんびり自分のペースで生きていれば見つかるモノなんだよ、というセリフがどこかから聞こえてくるのは被害妄想かな。そうやって多くの識者らしき人々がコメントするのを目にするにつけ、この人たちは本当に心の底からそう信じて発言しているのだろうか、と妙に疑り深くなってしまう。どうにも最後にたどり着いた部分だけをクローズアップして受けよく言葉にしているように思えてしまう。
もしかすると、いや、もしかしなくとも多分に私自身のどんくささのせいかもしれない。ただ、自分がそうだからか、必死になって『正解』を求めているときというのは、だいたいにおいて何かに追い詰められているときだと思う。具体的な何か、つまり仕事のノルマだとか学校の成績だとか、あるいは婚活がうまくいかなくて、なんてところに思考が行っていたとしても、それはもっと抽象的で得体の知れない不安が誇大していて、しかもそれをうまく認識できないために生じた症状のようなものではないだろうか。そして、そんなときにいきなりリラックスして自分のペースで、と言われたところでそう簡単に実践できるはずもない。当人はそれこそどんなものを探しているのかも検討をつけることなく求め続けて、彷徨って足を棒にして焦りまくって落胆して情けなさのあまり消えたくなって、行き詰ってどうしようもなくなっているのだ。思うにそれは、そうして目いっぱいあがき続けたある時、ふとずっと前からそこにあったことに気づくという類のものなのだ。求める答えは自分の足元にありました、と。狙って足搔くものではないが、言われるままにのんびり構えて得られるような種類の世界ではないと思う。自分のペースでのんびりしてそういう世界をつかめる人は、誰かに言われずとも勝手にそうしているものだ。それが証拠に、その手の話を聞きに集まってくる人々は既に何らかの漠然とした不安な状況に押しつぶされ、追い込まれているで。
だから仮に、すぐ見つかるよ的などこかで聞いたような話を耳にしたところで、あの当時の自分だったら、きっと真剣に目の前に焦点を絞って見ることなど永遠にしなかったと思う。
なんだかメーテルリンクの『青い鳥』の結末に似てる?
いやいや、あの物語の原作の結末は、実はそんなことは言っていないと思いますよ。
ともかく、そうやって彷徨っていた頃にはよく、あちこちの心のことを共有できるはずの場所に赴いたものだった。どこもそれなりに人が集まっていて、おそらく年齢も性別も仕事や出自も異なる人々が自分と同じように、話者の言葉に耳を傾けたり、ディスカッションに加わったりしていた。そこに集まるに至る背景にはきっと互いに共有し、共鳴し合える部分もあると思うのだが、誰もが一見さんに近い状況で出会う中で、顔なじみになることはあっても即座に親しい間柄になることはまれで、そんな状況に妙にとけこんでいる自分を感じた。そして、とけこんでいるにもかかわらず、不思議なほど一人を感じた。決して孤独感、取り残された感といった感覚ではなく、自分の領域をしっかりと感じられて、それでいてゆるやかにつながっているような感じだ。大げさでなく、ある種の安堵感さえあった。
それがなぜなのかさしたる理由も浮かばないまま足しげく数年もの間通い続けてから、ようやく意味が分かったのが先だったのか、心が安定しだしたのが先だったのか、よく覚えていない。ただ、今になってわかるのは、見ず知らずの人々を周囲に感じながら同じ話を聞き、同じ催しを行い、時には自分の話をしながら、実は普段日常の中で一番身近なはずの自分と一緒にいることを感じられていなかったこと、その場では感じることを許されている気がしたことが何度も足を向けるに至った理由なのだと思う。
未開の地をたった一人で探検する冒険家は、間違いなく独りぼっちではない。物理的には一人かもしれないが、そうであることに打ちひしがれてもいないし、彼・彼女の追い求める欲求と行動の先に得られるはずのものに自分個人を超えた何かの価値を感じているはずだ。絶望の探検家ならともかく(そんな冒険家がいるのかは知らない)、彼らのモチベーションは、それまでに経験してきた人との出会いや出来事によって得られた感動を心と体に宿し、今自分が望んでいることを察知して積極的に行い、そうすることによって未来に思いを馳せることから得ている。そんな人を見かけることは決して多くはないが、素直に凄いなと感心する。
えらくきれいに書いてしまったような気もするが、探検家のように生きよう、と言っているわけでは全くもってないし、こんな素敵な人たちがいるんだよ、と紹介したいわけでもない。そもそも探検家といえども千差万別で、知り合いの探検家(?)などは充実はしてそうだが、やたら内戦のある危険地域に行きたがるような、とても行動をお勧めできる人ではない。
申し上げたいのは、過去を受け入れ、自分の一部として融合し、自分の欲求を肯定して生きるということは、どんな誉め言葉や外的な栄誉などよりずっと自分をモチベートすることで、その蓄積が自身の一体性を増すことにつながるということだ。自分の内側から湧き上がってくる想いに従って何かを行うことができれば、それはそのまま自分を癒し、自尊心を高めることになる。
・・・と、誓って嘘偽りのないコメントをさせていただいたが、十分な感じがしない。言わんとすることは自分で納得できても、その欲求が、自分が求めるものがわからないから困ってるんじゃないか、とようやく自分を取り戻す途についた頃の自分は思っていたからだ。私は行ったことがないのでほんとにそういうことを言っているのかどうかは実は知らないが、そこがわからないままでは、ありきたりの自己啓発セミナーか何かと変わらないだろう、とさえ書きながら思った。
だが、それが、つまり自分の欲するものが何か正解を求める人は、自らの感性の解釈を他者に読み取ってもらおうと思っていないか振り返ってみてほしい。あるいは、世の中の価値にうまく自分の感性を合わせこむ回答を望んでいないか、でもよい。そのようにして得られた答えは、ますます自分を追い込んでしまうものだ。うまく自分を感じられなかったり焦ったりして、表面だけのワクワクだとか陽気な振る舞いだとかに行ってしまったところで、それが奥底から望んでいる行為でなければ意味がない。
一番大切で一番親密な自分自身と一緒にいる。これはかけがえのない自分を生きる大前提だ。自分自身と一緒にいられず、他の誰か、あるいは価値に引っ張られて腹を立てながら、自分を見失ったままで幸せを感じられるはずもない。このブログでも表現を変えて何度もそう述べてきた。かけがえのない自分、たった一人の自分、愛おしい自分、だ。
自分、ジブンとばかり言うな、という声が聞こえてきそうだが、自分なくして自他の幸せを願うことなどできない。だいたい拙ブログを読まれている方々は自分のことを後回しにされている方が多すぎるのだから、行き過ぎなくらい自分を意識していただいてちょうどよいと思う。
そして、だからこそなのかもしれないが、自分だけで生きることのもろさを感じていることにも気づいてほしい。人に振り回されずに自分をしっかり受け入れ自分として生きること。自分を見失わず、自分と相談しながら結論を出していくこと。それらを実行しながら人の中へ入っていくことは簡単なようでいて難しい。つい何行か前で、大前提だ、とかぶっておきながら、舌の根も乾かぬうちにこういうことを申し上げることになって何だが、少なくとも私には意外なほどにハードルが高かった。相手を立てて自分を蔑ろにすれば元の木阿弥だし、自分が自分がと我を張ってやっていくことの弊害はつとに分かっている。折り合いをつけ、折衷案を求め、と頭で考えただけでは納得しがたい。
葛藤の中で孤独を感じがちな私たちにとって、自分の他に誰が一緒にいるだろう。
自分と相談を繰り返しと言ったが、弱り切った自分でできることは限られている場合もあるし、いつもいい考えや答えが浮かんでくるばかりでもない。
だから、決して親密で深い絆は感じないかもしれないけれど、そうやって弱り切ってある場所にたどり着き、壁にもたれかかるようにして蹲る自分のそばに、決して敵なんかではない誰かを感じられればありがたい。そんな想いを当時始めて感じた時は、胸を震わせる感動とは別のささやかで斬新な感覚を得た気がしたものだ。
その場所の片隅に身を置きながら感じていたことを言葉にすれば、次のような感じだ - 今ここにいる人たちは簡単に素を見せるなんてことはしないだろう。もちろん自分も同じだ。でも、こうやってこの場を立ち去ればどこの誰かもわからない人たち、ささやく程度にしか言葉を発せず、目配せを行うわけでもない見知らぬ人々は、同じ時間に同じ空間を占め、同じ不安を抱え、それに耐えながら誰かを批判することもなく、自分をあきらめずに生きようとしている
「一人いるときは二人いると思え、二人いるときは三人いると思え、その一人は親鸞なり」とは、浄土真宗の開祖である親鸞上人の言葉だ。鎌倉の昔から、人々は一人あることに想い悩んでいたのだろう。
前回も引用させていただいた養老先生は「神は詳細に宿る」という題名の本を出された。神道では、万物に神・霊魂が宿ると言われている。私は特定の宗教を支持しているわけではないので、結構都合よく教義をつまみ食いしているのかもしれないが、私たちを取り巻くいくつもの存在は私たちが自分に寄り添うことを決めた時、緩やかに味方になってくれるように感じられてならない。
私たちは、一人で生きることの心細さ、人の中に溶け込めない怯えと引け目に悩まされることがある。だが形はどうあれ、つながり方は何であれ、自分に必要な連帯は自分で築いていくしかない。だから、無下に批判されない安心を得られる場から始められるといい。
一緒の時間を過ごすということは、互いに大なり小なりその人の心の中を構成する一部になるということだ。構成の元は、人でもあるし、雰囲気でもあるし、話や物語でもあるし、その場所の音や明るさや匂いでもある。かつて『原風景を取り戻そう』のところでも述べたように、そうやって一緒にいる人や風景、想いを大切にしてほしい。それはとりもなおさず、自分を大切にすることに他ならない。
そして、そんな場所にささやかながら加わり、つぶれてしまいそうなときには拙ブログのこと、愚生のことも思い出してくれると嬉しい。
一緒にいる、とはそういうことだと思う。
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