前回は、『あなたの原風景を蘇らせよう』と題して、原風景にまつわる話でした。その中で触れたように、原風景とは私たちの体に宿った、かけがえのない自分を生きるための、大切な、本当に大切な自分の内面世界を形作る集合体です。意識無意識を問わずそれらと一体化して、私たちは私たち自身を生きていることを実感できます。だからこそ、喪ったと思っていたり、見ないようにしていた原風景を取り戻し、内在化することは、自分が自分として生きていくための土台を構築しなおす最重要なプロセスとなるのです。
ただ、この原風景を取り戻す作業が進んで、自分の中に一体感が醸成されることはとても素晴らしいことではあるとしても、それですべてが解決するとは限りません。もちろん、中にはこの作業を進めることで滞りなく、かけがえのない自分を生きていけるようになる人もいます。しかし、原風景によりベースが安定したり、泥沼から健全な大地に足の置き場を変えることができたとしても、その後どうやって、あるいはどの方向に歩いていけばいいのか、と迷う人がいるのも事実です。私自身も、視界が開けたと喜んでは落ち込み、といった試行錯誤を繰り返したものでした。
試行錯誤とその結果、そしてどうしたらよいかについてはこれからも機会を見つけて書いていこうと思いますが、今回は以前から気になっていた1つの現象?について、そこにはまって自分を取り戻す作業から微妙に逸れていってしまう危惧を感じたことを述べてみました。
私たちがいる場所は天国や仙人の国でないし、今これを読まれている皆さんは、日本に暮らしておられるか、日本を故郷に持っている方々だと思います。日本は私たちがそれを十分活用できているかはともかく、自由民主主義の国で、日本人として普通に暮らして行く分には、私たちは70億人を超える世界の人々の中でもとても恵まれた環境にあると考えることができるでしょう。有名なマズローの5段階欲求説(人は下位の欲求から順次満たしていく。順序として、生理的欲求→安全の欲求→社会的欲求→承認の欲求→自己実現の欲求)の是非はさておき、その頂点に位置付けられている“自己実現の欲求”まで追い求めることももちろん十分可能でです。
自己実現として、多くの人がより良い人生を求められる世の中は、悪い世の中ではありません。いろいろと試すことができて、そのプロセスもまた自分を知る1つの時間になります。
そういう前置きのもとで・・・。
気にしているからかもしれませんが、特にここ十年ほど、自己実現についての啓蒙や発信などが目につくようになった気がしています。きっとやっている人や場所ではずっと昔からやっていることだから、ほんとは取り立てて騒ぐほどのことはないのかもしれません。
ただ、ある時、なけなしの(と思い込んでいるだけなのだが)気力を総動員して、ようやく自分を取り戻し始めた、あるいは取り戻そうと何とか動き出した人にとっては、そのタイミングで遭遇してしまったり、はたまた実際に活動してみたりなどして、かけがえのない自分を生きるための道のりがかえって険しいものになってしまう、と感じることがありました。
気にかかっていること、目についてしまうこと、それは、ワクワク・ドキドキして生きる、というフレーズのことです。
『自分の願いを実現して生きる人はいつも、何かにワクワクし、そしてワクワクを追いかけて、楽しく生きています。人もお金も集まり、豊かな人生を送っています』
本やWeb、宣伝なんかで見かけたいくつかの表現をガラガラポンして文章にすると、こんな感じかな。
・・・・・嘘ではないのでしょう。「はい、私は幸せな人生を送れるようになりました」というのであれば、それに越したことはない。きっとそういう人々もまたいらっしゃるからこそ広まるところには広まっている文言なのだと思います。
奥歯に物が挟まったような言い方で申し訳ないのですが、私はこの表現がどうにも受け入れられなかったし、今も受け入れがたい感じを持っています。水を差すようですが、自分でも試してみたし、周囲の試してみた人の話も聞いてみた実感としてそう思うのです。
考えてみれば、理由はそれほど難しくありません。
『自分の願いを実現して生きている人は・・・』というフレーズなり啓蒙なりに集まってくる人は、当たり前だけど、不満のある人生を変えたい、と切に願っています。そして、不満のある人生とは、表層的な収入の多寡とか社会的な地位とかスマートな人間関係というより、結構な程度に今の自分を追い詰めている内面的な困惑とか苦痛、不安、違和感、不感症などが原因である、と理解しているのだと思います。そして、人によっては精神医療や心理カウンセリングを併用しながら、もっと自分自身に寄り添い、自分らしいと感じられる生き方の方向性を求めるでしょう。
このとき、ワクワク、という表現はとてもわかりやすい。子供時代、多くの人が一度は抱いた感覚だから、共感もしやすい。子供の頃のあの感じを思い出して、今のあなたが羽ばたけるようにするのです、といったような。だから、ワクワクして生きるようにしましょう、ワクワクを見つけましょう、人が集まってきてみんなと楽しく生きる世界を目指しましょう、などと言われると、確かにそうかもなあ、と、半ばその場の臨場感にもほだされて、自分にとってのワクワクを探す旅に出かけるようになります。そして、「ただし、具体的にどんな状況でどんなことにどのようにワクワクするのか、きちんとイメージできなければなりません」などと書かれている問いに答えようとそんな世界をイメージするうちに、いつの間にか自己との対話のはずが、求めるものとは別の方向にずれていってしまい、こういうものがワクワクであるはずだ、などと、半ば自らを思い込ませるような結末を作り上げかねない状況に陥ってしまったりします。
言葉が伝えてくるイメージのしやすさと自分の一端とのつながりを感じやすいこととによって、そこに自分を合わせこんでしまうのです。本来、自分の内側から“湧き出て”くるはずの世界の多様さを、前もって目指すものを特定されてしまうことで、自分とは何か、という問いの結論がとても狭小な世界に抑え込まれてしまう。そういった手法を否定はしませんが、メカニズムは知っておいた方がいいと思うのです。
繰り返しになりますが、ワクワク・ドキドキした人生を望んで探すことはおかしいとは思わないし、悪いことではない、と思います。ある種の可能性を感じる方法であるのは事実だし、それがその人にあう場合には素晴らしいと思うからです。ただ、そのやり方でどれだけの人がうまくいくのか、という疑問が、耳にする意見と自分の経験とから感じるのも事実です。
これは、その人が自分の果てしない内面世界を垣間見て、たどり着く場合があるほんの一例に過ぎないのではないでしょうか。あるいは、仮にこの世界にたどり着くとしても、その手前に、向き合うための肯定すべき多くの自分と出会うことが大前提ではないでしょうか。
私たちは幸せに生きることを願っています。そしてそのための方策として、幸せを具体的に描こう、とも言われています。ただ、「だからワクワクできるイメージをしっかり持とう」というところへ一気にいく流れがあるとすれば、その間には絶大なるギャップを感じてしまう。ナイル川の河口で、岸辺から対岸まで自分の足で一気にジャンプしろ、と言われているようにさえ思えてしまうのです。
いささか大げさな比喩ではありますが、実際にワクワクを求めることを試してみてうまくいかず、どうにも感覚的になじめない、感情が空回りしてしまう、自分の中に妥当なものを見出すのが難しい、などで、本来の自分に近づこうと歩むこと自体が自分にはできないのではないか、そんな力は眠っていないのではないか、と、プロセスを断念したり、苦しいばかりの日常に戻ってしまう方の話を聞きます。
他にも幸せの形はいろいろとあるし、ワクワクと併存した感情に重きを置いて、あるいは優先的に感じている方もいるでしょう。
・こうやっているとなんか落ち着く
・この関係はじんわりとあたたかくて、ずっとこのままならいいな
・自分のこの能力がこれだけの人を助けられるのなら、この仕事に携わっていこう
・こんな静かで素敵な風景の中にいられるなら、ここに住みたいな
・あたたかい人たちに包まれて生きられるなんて幸せだな
・こんなに自分が好きなことを仕事にしてお金もらえるなんてラッキーだな
追い求めるものは自分の内側に見出したもので、継続してそうであってほしいものです。千差万別なのは、上記の例がいくらでも挙げられることからわかります。そして、どんな世界を求めるかによって、穏やかな雰囲気を身に着ける人もいれば、引き締まった表情になる人もいる。ちょっと適当感が出る方もいるかもしれないし、のんびり感を選択する方もいるかもしれなません。一つだけ言えるのは、追い求めるのは世間の評価軸ではない、ということです。
よく、足るを知る、コップに入った水を見てまだ水が入っていると思うようにする、自分の周りの幸せに気づく、などと言われます。これには2つの効用があります。
1つはその人自身が幸せに気づく方向にもっていく作用を自身の内部に働かせること、そしてもう1つは、その人の幸せの主観的な指標を肯定するという作用です。
お判りになりましたか。
幸せとして見出したものが、人と一緒にこんなことやって体がしびれるほど楽しかった、嫌なことと思ってたけど実はこんなエキサイティングな出来事を経験していたんだ、自分がやったことで大勢の興奮と感動を伝えられてこっちまで高揚しちゃった、などに思いを馳せるのであれば、そういう人はワクワクの方に親和性が高いのかもしれません。または、そういう方向に行ける程度には足かせとなる心の重しが取れていると想像できます。注意しなければいけないのは、明るく陽気にふるまうことで、内面の混乱や軋轢を無視してしまうことなのです。
一方、蘇った原風景をもとにやってみたいことを見つけた人や、人との関わりの中で柔らかな幸福やその人たちと一緒にいること、働くことのありがたさをじんわりと感じる人、見つけた小さな喜びに胸が締め付けらた人などにとっては、それ以外の世界が少なくとも最初に追い求めるものではないでしょうか。そして、それはワクワクとか高揚感とは別の平安と落ち着きをもたらしてくれるはずです。何気ない没頭、ちょっとした邂逅、日々の生活の発信、そういったさりげない日常を幸せとさえ感じることなく続けていくことを求めるなら、その先にこそ、その人にとっての幸せがあるでしょうし、それこそがかけがえのない自分を認める行為そのものなのです。
世に幸せという人は、サイレントマジョリティ(物言わぬ一般大衆)が多数を占めています。伝わってこない幸せな生き方を知るようにしてみましょう。
私たちは自分と大切な人々が幸せに生きることを願っています。
求める世界は自分の内側から滲み出てきたもの(というのが受け身に感じられるなら、つかみ取った、でもよい)でありたいものです。だからこそ結果に感情を合わせこむことは本末転倒で、それがわかっている人はなじめない目標でもあるのです。そういった人はワクワクが見つからなくとも、実はとても正常な心の持ち主であることを理解していただければと思います。
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