コンテキスト=CONTEXTという言葉があります。
文脈と訳すことが多いですね。
でも、ググったら、環境、と出て来ました。
言われてみれば確かに、
そのニュアンスもあるかもしれない。
とりあえず、ここでは文脈とします。
ここでいう文脈とは、
物事を受け止め、判断し、行動する、
一連の経緯、流れのようなものです。
あなたの無意識は、
この一連のコンテキストで編まれている、
と言ってもいいかもしれません。
表層的に、ある考えや行動を変えても、
全体として変化が見られない場合は、
特にそうだと思います。
目の前で起こった出来事に対して、
絶対ではないはずの考え方をもとに、
判断し、次につなげて、
Aなのだから :事象の受け止め
Bのはずで :事象の解釈
Cをすれば :事象に対する働きかけ
Dが生じて :次の展開
Eの結果になる :期待値
- A→B→C→D→E…なんて。
ホントは、解釈が偏っていて、
- A→B→Q→P→S…かもしれないし、
そもそも受け止め方など人に寄るのだから
③X→Z→M→α→G…なのかも。
あれ、①と③、共通項が何一つもない…。
そんなの空論だ。
若い頃、そう思っていました。
文字を使って数学みたいに表現すると
ますますもってそんな感じがしないでもない。。。
大切な自分の感情を
無機的なアルファベットや、
一般的な単語でまとめられてしまうことに
反感があったのかもしれません。
でも現実には受け止め方ひとつとっても
ある出来事を様々に解釈する人がいて、
プロセスも結果も全く異なることがある。
だとすると、心の世界では①と③は、
同時に成り立つのかな。
何だろう、これ。
気づいた時そう考えていました。
誰かから、何かから、
あからさまに命令されたわけではないけれど、
なぜか無理をして生きている。
無理とは、
月並みな言葉で言えば、
“べき”に支配された決まり事だらけの世界。
努力しかり、
仕事の出来しかり、
人への接し方しかり。
理想とあまりに程遠い状態が
トリガーとなってさらに派生する、
極端な寝不足かもしれないし、
不安に駆られた飲酒かもしれない。
脅迫的に働くことかもしれないし、
自分を良く見せようとする見栄かもしれない。
何よりそれらのことに気づいていなかったり、
気づいても止まらない感情の暴走かもしれない。
一つ間違えると、
頭がおかしくなってしまうような
ストレスかもしれない。
どうであるにしても、
自分が人生に持つコンテキストに起因している、
ということは間違いなさそうです。
問題は、それらの行為が、感情が、
日常生活に不具合を起こすほどに
行き過ぎてしまっていること。
そういう意味では、このコンテキスト、
価値観とか思い込みと言い換えても
差し支えないと思います。
ただ、もう少し具体的に、
あなたの行動や思考、そして感情に
自動的につながっているものでもあります。
ここが凝り固まっている限り、
人生は何も変わりません。
よく、行動を変えよう、とよく言われます。
間違いではないと思います。
ではどうしたらいいのでしょう。
自己啓発にせよ、
感情のマネジメントにせよ、
世の中には正しいと思えることがたくさんあります。
ただ、そこには、
その人の置かれた独自の境遇や環境、
その人の皮膚感覚や抱えている原風景、
特有の解釈や植え付けられた世の中の見方、
それらをして練り上げられたコンテキストが
無視されてしまっている、とは言わないまでも、
ほとんど考慮されていないのではないか、
そう感じる時があります。
全体あるいは総体がおかしな状況にあって、
ある部分の正しいことなるものを
いくら見聞きしたとしても、
一向に変化がおとずれないのなら、
そこ、つまりその背後にあるコンテキストに
焦点を当てる必要があるのかもしれません。
では、誰が、いつ、どうやって
あなたをそんなところに
追いやってしまったのでしょう。
いえ、もしかすると
その問いよりもう一つ上位のコンテキストに
焦点を当てる必要があるのでしょうか。
あるいはそんな問い自体が
不適切なのでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『ベイスタジアムから山下公園を臨む』
なんか最近こちらに行くことが多いもので。失敬。。。
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