心に起こる学歴信仰と同種のメカニズム

日々の棚卸

 

頑張って努力して根性を出して勉強して

周囲から勝ち抜けていけば、

なりたいものになれる。

最近はかなり減っているかもしれませんが、

それでも巷に蔓延る頑張り信仰、学歴信仰。

頑張ること、励むことは、

大昔から

ほとんど文化的な信仰となって

推奨されていたように思います。

大昔、は大げさかな。

身分というものが取っ払われた

米国の強制介入、すなわち

第二次大戦後ですね。

 

第二次大戦の敗北が日本の社会を

大きく変えたことの一つは、

この信仰を守った結果、

なりたいものになれる、

少なくとも身分差、貧富の差、

人間性などに疎外されることなく、

望みを実現することができる、

もしかしたら、

総理大臣にも、

会社の社長にも

なることができる、

そういう思想というか哲学というか、

いや、空気が

国中に広がったことではないでしょうか。

評論家の故山本七平氏は

この空気のことをニューマと呼んで、

第二次大戦に突き進むときに醸成された

国中の雰囲気をして、

日本人が1つの空気に染まりやすい

性質を持っていると言われました。

私は特に日本人に限った話ではないと

思っていますが、

少なくとも、戦争に負けて

衣食住もまともにそろえられず、

明日が見えず、

すがりつく思想さえ見当たらず、

その日暮らしにあえいでいた大多数の人々は、

そんな風潮というか仕組みに

迷うことなく入っていきました。

生きるためですからね。

その中で個性だとか向き不向きだとか

感情や嗜好が二の次になることは

仕方がなかったのかもしれません。

 

いずれにせよ、

努力すればなんにでもなれるかもしれない、

これを実際に言葉にする教師がいて、

親がいて、

大人がいて、

多くの子供は

それらを実現しようと生きました。

親も教師も、そして昭和の時代にはまだ

残っていた共同体の人たちも、

戦後の信仰として、

そういった生き方で子供たちがうまくいくと

とても喜んでくれて、

子供にとっても

単に自分の人生を担保できただけでなく、

大切な人たちを喜ばすこともできることが、

大きな自負心、心の支えとなって

生きる力に変えていました。

それまでの日本の歴史は間違いで、

米国の正しいやり方を導入することで、

日本をよくするという思想が植えつけられた

という面もあったと思います。

 

それが、この四半世紀くらい、

前世紀の終わり頃から、

どうも変だな、

頑張ったから必ずしもいい結果になる

とは限らないぞ、

ということが皆に共有されるようになった。

頑張ったから、

努力したから、

根性出したから、

勉強したから、

気合を入れたから、

なりたいものになれる、

今より豊かになれる、

抱えている理不尽さを解消することができる、

威張っていたやつを見返すことができる、

そんなことができるわけじゃないことが

わかってきてしまいました。

地位、名声、富、そういったものを求めて、

数的にも時間的にも

限りあるものを得られる人が

限られているのは当然だし、

また絶対的な貧しさの中にないのであれば、

相対的な差異こそが

差として感じられるのだから、

誰でもがなれる、はありえません。

 

しいて言えば、

絶対的な決まり事、

身分とか階級という理不尽な縛りから

解放されれば幸せになれるという

願いをかなえたいという思いのもとに、

実現してきた世界があったけれど、

それは新たな差異・格差を生んだ、

ということに気づくようになりました。

これはこれからも私たちにとっての課題だし、

対応が必要なことだと思います。

 

この件、心の問題も同じではないでしょうか。

 

暮らしぶりがよくなるほどに、

いろんなものを手に入れるほどに、

何でもできると思うようになるほどに、

なぜだか私たちは

自分の心もまたよくなる、

幸せで満たされる、

迷いがなくなる、

苦しみがなくなる、

そう思い込むようになっていきました。

あからさまに明言しないにしても、

何となくそういうもんだ、

そうなるに決まっている、

と思う人が増えた。

一言で言えば、完璧に幸せになる、

あくまで極論ですが、

そう思い込むようになりました。

ちょっと考えればそうじゃないのは

当たり前なのだけれど、

人の当たり前程当てにならないものはない

ということは、

自分を振り返るとよくわかる。

 

おかしなもので、

暮らしぶりや階級とは関係なく、

人は間違いを起こすし、

腹を立てるし、

どうしようもないほど落ち込むし、

時には鬱に陥るし、

理不尽な状態になるし、

自分もまた時には人を傷つけてしまう。

そして、

全然よくならないじゃないか、

と多くの人が思っている。

多く、というよりほとんどの人が

おそらく昔にはなかった

不安を抱えていて、

しかもどうしたらよいかわからないまま

日々をやり過ごしています。

昔の人たちがやっていたこと、

それを忘れて

モノや地位や金に走ったところで、

自分を律することを

自分ができないようになっているのだから、

自分も含めて

なるべくしてそうなっている。

 

人間は間違いをおかす。

落ち込む。

傷つく。

だからこそ、

自分で自分を勇気づける、

ミスを前提に生きる、

弱さを受け入れる、

しょうもなさを受け入れる、

忌み嫌っていた過去を受け入れる、

見たくない自分を自分の一部として認める、

自分全体で生きる、

そういったいくつもの利用できる自分自身を

さておいて、

周囲、つまり外的なこと、

お金、地位、名声、モノなどで固めようとしても、

内側の不安定さは変わらない。

そんな人が

一昔前のベルトコンベアに並ぶ商品のように

量産されてしまっている。

 

佐賀のがばいばあちゃんが言っていたように、

多くの人が生きていて、

長く生きる人もあるのだから

人の中にはエラーなんて必ずある、

トイレ掃除の老婆の役割は

誰かが果たさなきゃならない、

そういった社会の一部を皆が放棄している、

そんな社会で、ほんとは

心の苦痛やら、生きづらさもないもんだ、

そう思うときがあります。

 

多分に自分を棚に上げて、ですけどね。。。

 

ー今回の表紙画像ー

『町の夕景3』

きれいな夕空を撮ろうとすると、電線の多さに気づく。。。