自分自身であることは大切です。
自分自身であることが、周囲と関わる上でスムースであるのなら何の問題もありません。実際には、だいたいの場合、自分よりも周囲に合わせてしまいますが。
会社員ならずとも、奥さんならずとも、学校の教室ならずとも、誰もが大なり小なりそうやって人と関わっている部分はあると思います。
それもまた、自分がおかしくなってしまわない範囲で演じられるのなら、別に悪いことじゃない。
でも、中にはそういう状況についていけなくなる人がいるのもまた事実。
「ちょっと無理だわ」
「あわせてらんねえ」
まあ、表現はともかく、どうにも“その手の”つき合いに多少なりとも関係してやっていくことが厳しい(辛い、疲れる)人はいるものです。
かくいう私はと言えば、見事にその一人。
昔はよく極端に走って、相性が合う人とは徹底的に合わすけど、合わない人は徹底して避けるなり衝突するなりしていました。もうほんとに昔のことですけどね。
それが変わったのは、自分の選択がどこかで“正しさ”を論拠に求めていることを感じてからでした。人が暮らす世の中で人と交わって生きている限り、何かを判断する実際の基準は、正しいかどうかよりも、それ以外の要素の方が大きいものです。正義が人の数だけあるように、日常は人の数だけ正しさがあると自然に思えるようになった頃から、つき合う人の選択が両極端に走らなくなったということです。どちらでもなくなると、生き方が楽になります。必然、人の関係や仕事、お金の回転などが好転します。
不思議じゃないですか?
面倒くさい人であろうなんて題名をふっておいて、話が反対に進んでいるように感じられませんでしたか?いろいろなロジックが逆説的につながっているという、この業界(?)ではよくあるパラドキシカルな関係のためなんですね。
だいぶ前の話になるのですが、次のようなことがありました。
「××(人の名前)さ、面倒くさい人なんだよね」
大がかりなセミナーで数名が乗り合わせたエレベータの中で耳に入ってきた言葉。
ちょうど休憩中で、私も時々あいさつくらいはする数名が立ち話していた程度のことで、さして重みのある会話ではななかったのですが。
「なんかよくわかないんだよね、何考えてんのか」
そう言って発言した人が私の方に顔を向けてきました。それとなく同意を求めているように見えたので、そうなの?という感じで黙って聞き流しました。
何だか、自分のことを言われているような気がしたものです。
面倒くさいとは、そう発言する人が考える“一般的な”人の関係性のパターンに即して反応・対応しようとしない、ということなのかなと思います。だとすると、その結果、意志疎通をはかることが他の人々と比して著しく煩雑になったり、気難しがったりしてしまう、ということを嫌がっている、ということなのでしょうか。
仕事や付き合いで日々関わらざるを得ない関係がある人は、そういった関係に割く時間を削減したいと考えていると思います。その中で、出来るだけ周囲に合わせて、人の関係性に生じがちな軋轢や心の圧迫感を和らげようとする方もまた少なくないはず。
さて、そういった人の関係性の中で、“面倒くさい人”、とある種のレッテルを貼られるのは、当たり前だけど気持ちのいいものではないですよね。きっと、このブログを読まれている方の中にもいらっしゃるのではないかと思います。
“面倒くさい人”
いくつもの意味合いが混じった微妙な響きですが、少なくとも人の「群れ」からは少し離れているように感じられます。いつも一緒にいる人に言われれば、ある種の愛情表現ととれなくもないですが、一般的にあまり耳にも心にも入れたくない響きの言葉ではないでしょうか。
そんな方にあえてこう言わせていただきます。
“面倒くさい人”でいよう。
無理にそうする必要はもちろんありません。
でもそれが、
あなたにとっての“地”であって、
自然体の自分であるのなら、
ためらう必要はありません。
よほど人を傷つけてしまうのならともかく、
やたら周囲に反抗して突っ張っているのならともかく、
そういった状況でないのであれば、
面倒くさい=自分らしさの1つです。
繰り返しますね。
面倒くさい、は、自分らしさの1つなのです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
たまたま、
こだわることがあって、
何かの手続きが煩雑になる癖があって、
そうしないことにはどうにも収まりがつかない
もし、そうやって生きていてそれが行き詰る理由になるのなら、
“面倒くさい人”なんてその時になってから変えればいい。
傍から見てどう思われようと、
自分が面倒だと思ってないのなら、全くもってそのまま生きよう。
簡単だけど、実はそれこそが、つまり“面倒くさい人”である自分を受け入れることこそが、シンプルにして自分を大切にする生き方なのです。そして、人と距離を取りながら、それでも自分にあった距離で人とつながる生き方でもあるのす。
“面倒くさい人”と言われると、何だか格好悪いかもしれないけれど、それを頭ごなしに否定したり、落ち込んだりするのは、他人軸で自分を見ているから。いつも言うように、自分の一部であることを気づかせてくれる大切なことです。そして、ともすれば世の中の風潮に流されがちな私たちを、正気に保たせてもくれる。
そうなるまでには、人にはわからないあなただけのストーリーがいろいろと起こって、それを自分の中で昇華しようとして、自分を守るために周囲が言う“面倒くさく”なっている。そう思えれば、これほど愛おしい自分もいないですよね。
ー今回の表紙画像ー
『4月の遊歩道沿いの花壇』
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