ずっと昔、混乱していた頃は、思いを馳せる余裕がなかったけれど、当然のことながら私にも大切な存在がありました。長い時間を共にするうちに根付いた愛着の感覚が今の自分を自分足らしめていて、ときに歪んだ見方があったとしてもその大切さに変わりはありません。その歪みを含めた見方を通して、私はこの世界と接し、時に翻弄されながら、自分のかけがえのなさにたどり着いたからです。歪みは皆が抱えていて、私にとっての歪みは成長するうえで良くも悪くも私自身の個性となりました。
混乱している頃に思いを馳せる余裕がなかった理由は、私自身がその世界の内側で怒り、憎み、哀しみ、恐れながら、本当なら自分の足で立って動いて、その世界の外側に出て、自分という存在がどれほどちっぽけで、どれほど愛しく、どれほど稀有な存在で、何よりそれがどれだけそういった存在によってもたらされた感情であるか、知ることを拒んでいたからでしょう。与えられたものが不足している、こっちはたくさん与えたのに、と言って、自ら未来を切り開く行動を止めてしまっていたわけです。
大切な存在は、家族であることが多いというと、何だか引っかかる表現なってしまいますが、ほんの少しばかりそうではない人々を知っているので、とりあえずこんな言い方をしてしまいました。そうではない人々とは、私のような諸々の理由で家族を遠ざけた人たちのことではなく、家族を知ろうにもそんな記憶がない人たちのことです。児童養護施設に入れられるわけでもなく、子供の頃に文字通り親から見捨てられたり、お金だけを渡されて、途中から育児放棄されて親がいなくなってしまったまま、生活保護につながったような人たちから、哀しもうにも、怒ろうにも、そんな気持ちが湧いてこない、と言われたことがあります。もっとも、あるきっかけとともに心の奥底まで掘り下げればはやり震えるような想いが蓄積されているのかもしれませんが、それは彼・彼女が望んだ時のことであって、話を聞く身がどうこうできるものでもありません。その時はさすがに、何も言うことができず、自分の無力さが身に沁みました。怒ったり哀れんだり憎んだりする『基準』があるということは、ありがたいことだと思います。
大切な人々が家族であることが多い理由は、最初に述べたように、長い時間の中で喜怒哀楽をともにして、いつしか自分を構成する心の血肉と化した存在であるからでしょう。父であり母であり、夫であり妻であり、兄弟姉妹であり、息子であり、娘であり、ペットであり、大家族なら祖父母、親類など、何者でもいいのです。家族、と書いたけれど、そう考えると血縁である必要ももちろんないし、趣味仲間や飲み仲間だって、何十年も同じ場所で同じ時間を過ごせば立派に大切な存在になりえます。
何かコトが起こってこじれた問題が尾を引く場合、そしてそれをきっかけに収拾のつかなくなった感情の嵐に翻弄されて日常生活がおかしくなっている場合、大方はそういった大切な人々との関係を媒介して、最後は自分自身に行き着きます。
感情に翻弄されるとき、そこにはどんな感情が含まれるでしょう。哀しみと怒りが思い浮かぶのは不自然ではないと思います。このうち、純粋な哀しみであれば、涙を流しつくして新しい気持ちを獲得することができます。しばらく涙を流す日々を続けると、やがて次の行動へ自然に進むことができるようになるものです。「純粋な」とわざわざ入れたのは、怒りや憎しみを涙に転化して表現する人に多く出くわしているからです。何だかとても哀しんでいるな、と思って聞いているのだけど、一向にそこから抜け出そうとせずにいる、そしてその涙によって加害者を仕立て上げていく。言い方はよくありませんが、いわゆる被害者面というものです。それは疲れるし、その人たち自身、自分自身をも傷つけていることに気づいていません。
それとも関連して、翻弄される感情として最も多いものが、持続される怒りの放出です。これがさらに進み、解決されないままその場にとどまり続けると(当人がそれを選択していることに気づいていないのだが)恨み、になります。
怒りは自分の発するメッセージで、自他の変化を期待すること(それが達成されていないこと)の表れですが、日常の中で特定の相手に向けられたものが長く尾を引いて、心身にまで影響を及ぼすようであれば、それはメタファー(暗喩=自分でも気づかない暗黙的な表現)であることが多いものです。その感情をもたらしている本来の自分の想いと対峙することを避け、見ないようにすることで得られるメリット(と思い込んでいるだけで実はタバコと同じようにジワジワと自分の未来を削り取っているのだけど)を感じているのです。
その怒り(転化した涙も含む)、本当にその相手に向けるもの?
ほんとはもっと見なきゃいけないものがあるんじゃないの?
そこからずれてしまって、でも本来見なきゃいけないものを見てしまうことをあきらめてしまっていて、でもそれに半ば気づいていながら気づいていないようにしているから、おかしくなるんじゃないの?
なんだか、感情が分裂してしまっているみたいだね?
昔、精神分裂病と言われた統合失調症は、SFの世界でしかありえない極端なまでに非現実的な出来事を妄想し、幻聴や幻覚を生じさせるという、それはそれはもう恐ろしい病だけれど、そのずっとずっと手前にそういった自らを欺く自分というものがあって、それを繰り返し続けた(続けざるを得なかった)人の一部が、踏み込んでしまう領域ではないかと思うときがあります。
そうやって、おかしくなっている現状に至る過程に、すでに元凶が潜んでいます。 目の前に現れているものは、全て結果なのです!
原因を結果と見紛うから、対処と称して完全に明後日の方向にいってしまう。自分にコントロールできないものをコントロールしようとすることは、それが例え善意でしていることだとしても、悪い方向にしか行かないものです。
否定したいかもしれない。
そんなこと絶対にない!
これだけ大切に、親身に、丁寧に、下手に接しているんだ!
いやいや、違うって。
そんなこと、絶対無理って気づけばいいのに。
幸せ?
幸せは、自分以外のあらゆる人が言ったりしたりしたことでは決まりません。
幸せは、自分自身と相談して、自分が自分の人生に望んでいることを思い出して、それに沿って生きる中に既に用意されているものです。
大切な人や関係せざるを得ない人との間に生じたトラブルに魂を奪われ続けて、自分の人生自体がおかしくなることが繰り返される負のスパイラルから抜け出すことが必要です。
その方法が、標題のとおり、自分自身を抱きしめること。
私たちは、生まれた時からかけがえのない存在で、この世にたった一人の個性で、多くの人から助けられて生きています。信じられない人もいるかもしれないけれど、私もあなたも皆が、大っ嫌いなあの人を含めた他の人々に助けられて生きています。その恩恵は圧倒的です。
かけがえがなくてちっぽけで愛おしい自分。
その自分を育んでくれた人、環境、国土。
自分に幸せを感じられない状態で、大切な人を助けることはできません。
善意と思い込んでいるものが、イネイブリング(目的と正反対の結果をもたらす世話焼き行動)になってしまうからです。
相手を助けるための行動が、結果として相手を追い詰め、おかしくしてしまう。
それよりも、先に言ったように、自分が人生に望んでいるものをもう一度思い出して、それに沿って生きてみるようにしませんか。そんなこと考えたことがない、という人は、そもそもいない、と断言します。正確には、考えたというより、自然に感じていた、ということだけど。
前回、「あなたは幸せを知っている」で書いたように、私たちは自分が幸せでないと感じるほどに、幸せの感覚を経験しています。何かがつらいということは、つらくない状態を経験しているということでしょう。幸せも同じだと思うのです。
未来に望むのは、そういう意味での幸せの感覚そのものではないでしょうか。それを具現化すれば、人それぞれのシチュエーションがあるのかもしれませんが、思い出すべきはそういうことだと思うのです。
きっと、大仰できらびやかな何か、ではありません。
時間は巻き戻せないけれど、それと同質で当たり前の何かを実現することを求めて、自分が喜ぶ、気持ちよくなることを実行していけばいいのだと思います。
おそらく、最初は弱り切った心で想起したり行動を起こしたりすること自体が難しい人もいると思います。自分がそうだったし、同じような状況の方が話をされるのを聞きます。
そんな私たちだからこそ、まず自分を受け止め、抱きしめ、二度と突き放すことなく、一緒に歩いていくと約束するのだ。全ての自分を抱きとましょう。こんな素敵で大切な存在なんてそうそう巡り合わないですよ。
そうやって自分が自分の味方になるということは、自分の過去から今に至るまで押し込めていたあらゆる存在を一つ一つ取り出して思い出し、そこに共感する作業です。その中から新しい感覚を含めて、自分がそうでありたい未来がおぼろげに見えるようになります。すると、それまで怒りを向けていた相手や諸問題がフェイクであることに気づき、まるで溶解するように問題ではなくなってしまうのです。そして、それを生じさせることで見ないようにしていた感情が見えてくる。自分自身を抱きしめると、分裂していた二つの感情が、想いが、統合されるのです。
一度にすべてが解決されることはないけれど、この繰り返しの中に未来が包含されています。
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