忙しい?

日々の棚卸

コロナ禍で外出自粛が始まる前、

まだ有難くない花粉の残り粉が漂っていた

さるオフ日の夕刻、

知人と会う約束がありました。

その日はたまたまいくつか用事を掛け持ちし、

私には珍しく朝から忙しくしていました。

多分に要領の悪さもあるのでしょう。

洗濯を終わらせ、

市役所に出向き、

帰りしなに切れていた食料を買い込み、

保険の外交員と打ち合わせ、

週末の訪問客に備えて

普段爆発している家の中を片付け、

掃除をし、

ついでに水槽の掃除もし、

…とふと時計を見ると、

いつの間にか約束の時間に。

昔何度も再放送された

トムとジェリーではありませんが、

目の玉が顔から飛び出る表情さながらに

驚いて焦り、

とても間に合わないと思いながら、

駅に向かってダッシュ!

走りながら、あとから後から

ぶつくさと文句が湧き上がってきました。

文句と言っても、

誰に何をあたるわけでもないのですが、

八つ当たりすることができないので、

なんでこんなに忙しいんだよ、

と一人勝手に切れていました。

なんというか、お恥ずかしい話ですが、

忙しいの中にも、

忙くてもいい時と

忙しいのが困る時が

あるものですね。

 

そういえば、これまでに本当に忙しかった時って

どのくらいあっただろう。

そう思って振り返ってみると、

学生時代までにもあるにはあったけど、

やっぱり社会に出て仕事を始めてからの方が

圧倒的に多い。

自分の日々の生活に

責任をもって生きる時間が長いのだから

当然といえば当然ですね。

忙しいときは、

いかにして仕事の質を落とすことなく

素早く効率的にこなし、

食事を栄養が偏ることなく短時間で済ませ、

その合間を縫って

ジョギングや筋トレの時間を捻出したり

人と会ったりする時間の捻出をしていました。

 

そうやって、長い歳月、自分を取り戻しながら

何とか日々を生きていく間に、

父を含めて、

かつて一緒の時間を過ごした

何人かの友人がこの世を去っていきました。

病気や事故で亡くなった者もいれば、

父と同じように、

自ら旅立っていった者もいました。

後者については、

直前の彼らを知る共通の友人によれば、

いつにも増して、忙しく生きていたよ、

とのことでした。

 

忙しいということは、

充実していることとは限りません。

忙しいけど充実していない時はあるもので、

どこに向かって動こうとしているかが

本音の部分でわかっていない。

大方、

いつも怒りっぽくなっているか、

落ち着かずにあくせくとしているかで、

仕事と私生活とを問わず、

労働時間ばかり長くて、

他者から見て成果が得られていない。

当人は苛立ちを交えながらも、

必死になって取り組んでいて、

それなりに結果も出しているつもりだから、

周囲の評価に不平を持ってしまう。

その感情をまぎらすために、

アルコールや

食事や、

買い物や、

運動など、

日常に楽しく取り込めば害がないはずの

様々な行動と

そこに宿る暗い感情によって、

徐々に息詰まるようになる。

後は、悪循環が待っているばかりです。

 

好きなことをして、

目標を追いかけて、

自分とつながって、

周囲の愛を感じ取って生きているとき、

傍から忙しそうに見えたとしても、

当人は

「××のことにもっと時間を取ろう」

「○○のための時間を作ろう」

と前向きに生きています。

本音の部分で大切にしていることが

しっかりと定まっていて、

それを基準に動いているから、

与えられた時間と

そこに許された大切な思いの実現に

感謝することが根底にあります。

忙しいと思いながらも

どこかで朦朧としているなんてことは

これっぽっちもありません。

 

多忙、忙殺、繁忙、忙中…。

忙しさを表す単語。

「『忙しい』とは『心』を『亡くす』と書きます」

とはよく言われる通りですが、

本来の目的を達成するときに

そこに重ねていた想いというものを

見失ってしまっている

と読み解くこともできます。

一時的に機械作業になることはあるにしても、

自分が頭と体を使って

何かに集中するということは、

そこに成し遂げたい希望か夢か、

そこまでいかなくとも想いがあると思うのです。

 

医者でも宗教家でもない

一介のおじさんカウンセラーである私が、

かつての自分や

私の両親と同じように苦しんでいる人に、

その人が納得できる人生を取り戻す

お手伝いをしようという

“想い”をもって接したり、

このように発信をしていても、

時に“多忙”を理由に

自分に言い訳をしたくなることがある。

だからここに書いたことは(も)

自戒の念を込めているつもりです。

 

自分の心の血肉になっている

さりげない日常の一コマ一コマに

一緒にいてくれた人々が、

忙しくしていたよという言葉を添えられて

逝ってしまったなんていうのは

どうにも悔しい。

人は皆、愛の塊で、

他者にできる最大限の愛とは

関心を持つことと何度か書いていますが、

そうやって他界した友人たちのことを思うと、

それ以上に何かができなかったかな、

と遠く離れた地で思ったりもします。

 

ともかくも、意に添わないことで忙しいときって、

本当は苦しいですよね。

きっと心を亡くしてないからなんですよね。

心をなくすほど没頭しているなら

ある意味害はない。

でも心があるから、苦しい。

言っておきますが、

心をなくせっていってるんじゃないですよ。

自分を見失いかけていると気づくヒントを、

見失いかけた自分に気づくヒントを、

教えてくれているんだって言ってるんです。

 

自分が好きなことをするということは、

巡り巡って

資本主義の原理に則っていることで、

これについてもいつか詳述したいのだけれど、

忙しいと感じる中に

変化のヒントを感じ取ることを

心の片隅にとどめておいてくれると嬉しいです。

 

ー今回の表紙画像ー

『西湘 大磯海岸 夕景』