社会人になりたての頃の夢は、
30歳になったら隠居生活に入ることでした。
何とかお金をためて、
田舎に家を買って
最低限生活できるだけの資金をためて
人生が終わるまで
静かに暮らそうと願ってしました。
バブルも崩壊して、
国も企業も元気がなくなっていて、
平成の時代が進む中で、
社会全体が少しずつ、
それまでのパワーと気合の世界から
自分を大切にする方向へシフトしていく、
そんな状況の中で、
原家族との間にあった哀しい出来事から
20歳を過ぎる頃には絶望し、
抑うつで体が動かなくなり、
といった状態になって、
それがそんなことを求める
きっかけでもありました。
それまでの生き方ではすでに
たちいかなくなっていることを
頭では理解できていませんでしたが、
体が反応し始めていました。
それが変化を始めたのは、
それまでの生き方の延長線上には
表れえなかったはずの
新しい場所に生き始めた頃からでした。
その頃はまだ、
自分がそれまで生きてきた世界以外の場所
というものを知らなかったのですが、
少しずつ、
会社の外、
組織の外へ目を向け、
それまで付き合いのあった友人以外の人々と
付き合い始めるほどに、
隠居生活への願いは
徐々に薄らいでいきました。
それは、
原家族の中で育んだ世界観をもとに
つながっていた世界以外の何かを
求めていたんだと
気づいた時でもありました。
目が向いたのは、
北欧、特にフィンランドであり、
ウイスキーであり、
比較文化論であり、
そして心の世界のことでした。
まだ、
家族の価値観の延長で仕事をしていて
そんな自分へ情けなさとか苛立ちから
目を背けていた面がありました。
同時に、新しい世界を探して
いろいろと試していたのも確かです。
その考え方も当時の一挙手一投足も
お世辞にもスマートではありませんでしたが、
振り返ってみれば、
それなりに充実していた上、
この時代に学んだり体得したことは
今になって、
世の中の見方、
自分自身の見方へ
大きく寄与してくれていると感じられもします。
最近は、専ら心の世界のことと、
そこに関係してくれる皆様と接することに
興味が向いていますが、
先日、暮らしている街の図書館に行った際、
北欧のコーナーができていて、
そこで、
北欧流スローライフ
という文言が目に入ってきて、
久々に北欧のことに目が向きました。
何年か前から提唱されている
北欧のライフスタイルのことであり、
あくせく生きるのではなく、
ゆったりと生きることの中に、
自分の望む人生を実現していく
生き方のことです。
今世紀に入ってから、
何年かおきにその手の本が
本屋に並ぶことが繰り返されていますよね。
実際の北欧が本当にそんな
ライフスタイルなのかということは
別の場所で述べることにして、
そんな生き方も確かにいいよな、
そう感じたのは事実です。
隠居生活にあこがれていた昔なら
きっとすさまじく惹かれて、
実現するための具体的な方策を
練っていたかもしれません。
これを実現したら、
幸せになるに違いない、と。
隠居するならこれでいこう、と。
その一方で、違和感も感じました。
ライフスタイルそのものに対してではなく、
そこに逃げ込もうとしている自分の在り方
というものに対してです。
怖がりながらも少しずつ、
様々な自分の性癖を受け入れてくる中で
そんなことを感じられる程度には
私が変わってきていた
というのもあるでしょう。
何か特殊な一部だけを取り上げて、
それを楽しむだけならいいのですが、
それをして自分の望む全てを体現し、
見通した、つかんだ、と
勘違いすることの愚を、
自分の中に見た思いがしたのです。
目の前の生活、生き方からの飛躍を願ったり、
想起したりすることは、
時にとても大切だし、
逃げた何だと責めるのもおかしなことです。
ある意味、そういう生き方は
どこか心の片隅に
常に描いておいた方がよいとさえ思います。
ただそれが、今を無視して
遊離した感覚になってしまうのみならば、
それは自分をおかしくしてしまう。
そう思えてならなかった。
繰り返しますが、
北欧流スローライフ、
とても素敵だな、と思います。
もっと軽やかに、
もっと楽しんで、
よい意味でもっといい加減に、
片手間で取り組んでみよう、
そう思った時に始めればいい、
少なくとも当時の私はそう結論付けました。
それが唯一の結論ではないと思います。
なにはともあれ、まずやってみよう、
そういう人がいてもいいと思う。
ことに家族のような
本来安全と安心を問われる場所で
つらい思いをしてきたような方であれば
そんな方向に行くのも一つの可能性
だと思います。
しっかりと自分が落ち着く世界を求めればいい。
私はそうはしなかった、というだけのこと。
そこに、
自分にとってのこれからにつながるような
癒しとか、原動力の醸成感を
少なくとも当時は、
感じられなかったのでしょう。
人それぞれだと思います。
これからなら、少し試してみようかな、と
これを書きながら思ってみたりもします。
今回は、順序や選択の妥当性の話ではなく、
自分がその時々の感性に従って
選択することについて書いてみました。
正しかったこと、間違ったこと、
実はどちらでもよかったこと、
それぞれあったと思います。
ただ、自分で選択して決めてきたことの
繰り返しの中で、
誰かに乗っ取られることのない、
自分の感覚を信じられるようになった
そのことがお伝えしたかったことです。
ー今回の表紙画像ー
『月と木星?』
街中をドライブしていたら、月がとってもきれいだったので、街明かりの届かない川の土手に行ってパチリ。今日は月の横にある木星?もくっきり。
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