社会に出て、
仕事や人間関係に行き詰まった時、
解決を求めて原因を探り、
これまでの自分の生き方、
体得してきた価値観について、
棚卸をすることがあります。
自分が生きてきた道のりの
点検作業のようなものですね。
今起こっていることを解析して
対処するだけでは
どうしても解決策が見えない時に、
これまでの生き方、
これまでの生き様に焦点を当てて
振り返ることで
自分では何とも思っていなかった
生き方の癖のようなものが見えてきて、
今の行き詰まりに大きく
影響していたりすることに
気づくようになるということです。
一例として、
職場の人間関係に行き詰った人が
誰とコミュニケーションをとっても
最後はどうにも対立してしまったり、
仲間外れになってしまうようなことが
繰り返されるのであれば
ジェノグラムと呼ばれる
家族を構成する人の相関係関図を描き、
記憶にあるエピソードを抽出して
自らが受けた教育や躾の特徴、
言語化されなかったメッセージの抽出、
自分が思い込んでいた解釈
などを取り出し、
それが今の自分が感じる
人との関係や
仕事の選択の理由、
今取っている、あるいは取らざるを得ない
働き方などに
どのように影響しているかを考えていきます。
これは、心理カウンセリングや
精神医療の場で用いられる、
自分でも意識しないまま
自らの内面世界に根付いた感覚を知る上で
有効な手法の一つで、
自分が行き詰っている
原因なりきっかけなりを知るための手法で、
そこから自分が進む、
新しい方向を見出し、
選択することができることもあります。
そのようにして自分の現在位置を確認の上、
新しい世界に向かうとき、
よくメンターの大切さが説かれます。
メンターとは自分にとっての
その世界における師、アドバイザー
といった意味合いの存在ですが、
自分で自分に問うて考えるべきこと、
守るべき、実践すべき留意事項、
コツや見えないルール、
取り組み姿勢や心持ちなどを
教え、見せてくれる人のことです。
子供時代であれば当然、
親がそうでしょうし、
隣近所のおじさんおばさんや
学校の先生だったりしたかもしれません。
自分が学ぶことができる人、
ということですから、
実際には、あらゆる人が
メンターとなりえるわけですが、
そうやって自分が飛び込んだ世界で
うまくいかなかったとき、
いえ、
うまくいく道筋が見えないとき、
その過程で受けた仕打ち、
結果として傷つけられた態度や言葉、
メンターの至らなかった点などが思い出されて
悶々と怒りをため込んだり
相手の非を責めたりする人がいます。
子供っぽいことですが、
私自身、20代の頃に
親と大学の先生に向けて
そんな感情を募らせた時期がありました。
教わる側と相談を受ける側の
双方を経験して感じるのは、
怒りの感情を
自分を含めた誰かに向けることは、
全く無意味だということです。
怒りを覚える自分がおかしい、
と言っているのではありません。
湧き上がった怒りという感情に、
いつまでも支配されていることは
労力の無駄だということです。
100人いれば、100の正義あり。
怒りの感情は、裏返せば、
自分が次にすべきこと、できることを
示してもいるわけですから。
これは、メンターを含めた
あらゆる他者との関係に
当てはまることではないでしょうか。
働いていると、
とかく周囲の発言や仕草、
ちょっとした行動にカチンときて、
我を忘れがちです。
多くは無意識のうちに、
自分がさして望んでいるわけでもないことに
携わり続けている時にありがちだと
私は考えていますが、
でもそれは、
自分の評価を
他者に委ねてしまっていることで、
これほどもったいないことはない。
私たち自身が全くそうであるように、
私たちが参考にし、教えを請う、
時には反面教師として見る他者は
全知全能の神様と比ぶべくもない
もう一人の私たちにすぎません。
ならば、
自分が教わることができたことに注目し、
それを自らの中にしっかりと吸収して
自灯明とすること、
つまり、自分が築いた基準を
自分に当てはめて生きる実践こそが
私たちに与えられた、
私たちだけの、
幸せをつかむ生き方につながると思うのです。
私たちには他者が必要です。
どんな働き方、生き方をするにせよ、
ロビンソンクルーソーを目指す人は
ここにはいらっしゃらないと思います。
そうであるならば、
他者を鏡としながらも、
他者の教えや権威や立場に依存しないような
自分にあった働き方、生き方を、
少しでも無理なく実現していくには
どうしたらよいかを考えていくことが
自分を見失わないために
必要なことではないでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『S川土手より』
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