私はとても本が好きで、
ジャンルを問わず気に入ったものは
たいてい読むようにしています。
というか読んでしまいます。
フィクションもノンフィクションも、
男性作家も女性作家も、
芥川受賞者も無名の作家も、
名のある出版社の本もライトノベル本も、
プロだけでなくアマチュアも、
年配の作家も子供の作家も、
時代も国も
一切関係なく、
その時々で興味をそそられる本や、
どうしても読みたかったり、
必要を感じたりした本を手に取り、
ネットで入手し、
古本屋街を彷徨い、
何とかかんとか見つけ出してきます。
そういった本の中には、
特に古本で1万円を超えるものもあったし、
ネットで検索しても出てこないものが、
こんなところに置いてあったのか、
なんて掘り出し物も見つけたりしました。
もちろん巷でよく売れている、
有名な本もたくさん読んでいます。
大沢在昌氏、
京極夏彦氏、
宮部みゆき氏の本も
一昔前まではずいぶん読みました。
大沢氏は『新宿鮫 無間人形』で、
京極氏は『後巷説百物語』で、
宮部氏は『理由』で
直木賞を取っています。
別に直木賞を取ることが偉いわけでは
全くもってないけれど、
直木賞を取った作家の作品は面白い。
独断で偏見を言わせていただければ、
芥川賞受賞作品よりも面白い。
あくまで個人の感想です。。。
そんなお三方の名を挙げたのは、
氏らが大沢オフィスという株式会社に
所属しているからです。
少なくとも、大沢氏は
オフィスに出かけて仕事(=執筆)を
しているのだとか。
しかも純粋に書いている時間は
せいぜい2時間程度とのこと。
集中力が凄いのでしょうね。
ともかくも、作家とは、極論すれば
ペンと紙があればできる仕事です。
それは作家の皆さんもそうおっしゃる。
そういう意味で、
純粋に一人で仕事ができるのは、
作家と数学者くらいかもしれません。
現実には資料が必要だったりするし、
今はパソコンを使うことが多いから、
紙とペンというより
ノートPCが主体かもしれませんが
いずれにしても
わざわざ人が集まるオフィスに出向いて
モノを書く仕事をする。
若い頃は、
それが不思議で仕方がありませんでした。
当ブログ、そしてかつて少しだけ書いていた
超マイナーな通信誌のコラムもそうだけど、
私自身もまた、
家で書くこともあれば
出先で書くこともあります。
ノートPC1台持ち出せばいいし、
一緒に調べ物もしたいときは
ネットで検索すればいい。
必ずしも一人になれる場所で書くことには
こだわりません。
ただ、さらにその昔、
まだパソコンとEメールが
ようやく広まり始めた時代の
もっと心の中で引きこもっていた頃、
物書きを目指したことがあって、
その理由は
当時の自分の内勢を物語として
世に知らしめたかった
というのもあるけれど、
人とつながらなくても食べていける、
それも自分の好き勝手なことを書いて、
もしかしたら
ガッポガッポと稼ぐこともできて、
嫌な奴に会うことなく、一人でいられて、
もうこんなに素晴らしいことはない、
などと
世の中を知らない青二才らしい
妄想をしていた頃のことでした。
それが、
今はわざわざ人のいるところに出かけていき
そんなノイジーな場所で書いたり、
時に友人と会って話したり、
人に会えないときには電話したり
そんなことをしてまでつながり、
そういったことと並行して
このブログも書いています。
あの頃の自分には考えられない行動で、
しかも今はなぜそんなことをしているのか
よく理解もできます。
情報の有機性と言うと
なんかコテコテに科学的な表現に
なってしまうけど、
学術書や経営書でもない限り、
物書きが求められる理由というのは、
そこに、人の有機性、
つまり、
自分を含めた人や社会とのつながり方の
ヒントを求める無意識の欲求が
万人の中にあるからではないかと思います。
先日のテレビで
イタリア在住の漫画家ヤマザキマリさんが
イタリア人をして
世界一ソーシャルディスタンスを保つのが
苦手な国民性だと言っているのを聞いて
大口開けて笑ってしまったけど、
そういった意味では
私たち日本人は
他人と距離を置くことに
それほど違和感を感じないというか、
ある意味で対人恐怖的な要素を
他国の人々より多く抱えている
国民性だと思います。
ちなみに、対人恐怖というワードは
英語でもTaijinkyofuとして
辞書かなんかに掲載されているとか。
多少の偏見もあるでしょうが、
日本人的な性質として受け取られている
ということなんでしょう。
少なくとも人と人との関係を比較した時、
どちらかと言えば慎重な私たちにとって
直接のコミュニケーション以外に、
つながり方のヒントを常に求めている
という要素があったとしても
不思議ではないと私は思います。
新聞やニュースだけでなく、
あるいはこのブログのような
心や体について語る話に限らず、
推理や恋愛小説、スポーツにお笑いのような
エンターテインメントも、
そう考えてくれば
なぜ求められるのかの理由に
確かになりうると思うのです。
先に挙げた学術書や経営書などでさえ、
著者の想いが行間に滲み出ることによって
単なる理屈の書であるはずの本(表現)が
一般の人の心にまで深くしみいるように届く
そんな経典のごとくなりえるわけです。
いわゆるバイブルというやつですね。
人によって、受け止め方はいろいろあるし、
主張していることの是非もまた
そうかもしれませんが、
名著と言われる本の著者は、
ドラッカーやベイトソン、
カーネギーであれ、
ヘッセやユングであれ、
これまでに登場いただいた
ドイルや漱石であれ、
手塚治虫やビートルズや、
ちょっとジャンルや時代を超えると
とても書ききれないくらいの人々が
そこに表現していることは、
その人にとってのジャンルを通して、
いかにして自分や人とつながるか、
その一端を独自の見解として表していて、
私たちはその表現の中に、
自分と世の中に向けられた
愛情を読み取り、感じ取ることで
つながり方、
つながる可能性、
つながる必要性を理解し、
また、
求めてもいるのではないでしょうか。
究極の孤独な職業と言われる作家でさえ、
その本質はつながり方の考察だと思います。
そう考えてくると、
私たちが人とつながるということは、
一般論として話される以上に
本能的な、
情動的な
深い意味での領域に根差す、
避けては通れない人生の一部だと思います。
もちろん、
つながらなくてもやっていけるなら、
それはそれでいいでしょう。
心の底から、
怒りや哀しみの感情と無縁の、
自然体でそう言える方は、
おそらくこのページは
読んでいないのではないかと思います。
あるいは、
つながらないといけないと考えているなら、
それはそれで問題ですけどね。
つながりたい、
でもつながれない、
そういう人は、
つながった過去の素敵なシーンを
思い出してください。
過去のシーンそれ自体は
終わったことかもしれないけれど、
いつだってそこにいる
つながったあなたの情動は
現在のあなたそのものでもあるのです。
そこからはじめましょう。
ー今回の表紙画像ー
『民家脇の花 朝の散歩より』
ヤマトシジミチョウがとまっていた。わかる?
最近のコメント