祈りの世界の片隅に

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前々回のブログ、

『自分の世界を変えていくための祈り』

の続きです。

 

祈りと私たちが暮らす世界とのつながりを

もう少し掘り下げてみようと思います。

 

この世界が祈りでできている、と言われて

どう思われたでしょうか。

眉唾感じられました?

 

スピリチュアルの好きな人以外は、

あきれたか笑われたかスルーされたかの

どれかではないでしょうか。

 

しかし、歴史を振り返ってみると、

人々の祈りによって世界が実現されている、

そう思うときがあります。

 

祈ることの大切さを説かれたり、

本やメディアで祈るといいと知り、

 

そういうものかもしれないな、

とりあえず祈ってみるか、

となっても、

 

実例はと言えばそれを唱える人や

その周囲の人に効果があった、

という話ばかり。

 

偶然なのかもしれない…

 

何となくそう思ってしまう方も

おられます。

 

科学的に効果があることを算出できるかは

わかりません。

 

もしかしたらできるのかもしれませんが、

ここでは行いません。

 

ただ少なくとも、

祈りがこの世界を作り上げている例を

私たちは知っているのだと思います。

 

なんのこっちゃと思われるでしょうか。

それが私の今とどう関係するんだ、と。

 

カウンセリング、心理学と何の関係が

あるのだ、と。

 

でも、私たちが暮らす社会、

そしてその社会を

連綿と作り続けてきた歴史と

 

私たちの心の風景とが

関係ないはずがないと私は考えています。

 

 

心理学と経済は似ていると言われます。

 

両方とも“気”が関係するからです。

心理学では、気持ち、気分、

経済学では、景気。

 

片や個人に帰し、

片や集団に帰す。

 

私たちは資本主義社会に暮らしています。

それは誰もが知っています。

 

資本主義社会の始まり前夜について

少し話をさせてください。

 

資本主義とは、(大規模な)資本をもとに

ことをなすわけですが、

 

資本をもとに新しい富を追求する

社会自体は、古来からありました。

 

そもそも資本主義が始まったとされる

18世紀のヨーロッパより

富を蓄えた国も地域も数多く記録にあります。

 

しかし、ついに近代資本主義たる、

利潤の追求、貨幣が貨幣を生むことを

是とする社会は成立しませんでした。

 

非常に単純化した話をすると、

例えば、契約と隣人愛はつながっています。

 

神を敬うがごとく隣人を愛せよ、

というキリスト教の教義が

契約という横のつながりに重なったとき、

 

そこに近代資本主義の精神があることを

マックスヴェーバーは述べています。

 

神を敬うがごとく隣人を愛する、

ことができるように自ら祈り、

実行する人の集団が、

 

やがて、

資本主義社会の一翼を担うように

なっていきました。

 

効率、利益、開発のスピードなど

企業社会で求められる指標も、

もとはそんなところから出ています。

 

サラリーパーソンの方によっては、

あまり聞きたくないワードかもしれませんが、

 

元をたどれば隣人愛の実践が

導き出したものだとするならば、

それらもまた祈りの結果得たものです。

 

そうやって獲得したものが

おかしな方向に暴走することが

あってはならないのですが、

 

資本主義は一度発動すると、

本来の目的(隣人愛、神様という概念など)が

生活の背後に隠れてしまった後、

 

つまり、本来の意図、意志を見失った後も

継続されてしまう、という

怖い面を持っています。

 

昨今(では実はないのですが)、

巷を騒がせている、

 

自動車検査の不正や会計の不正などは

その一例なのでしょう。

 

いずれにしても、今我々が暮らす社会は、

宗教をベースにした祈りの蓄積が

社会を変えていった一例です。

 

え?

それは外国の話?

 

では、日本に目を向けてみましょう。

 

江戸時代の日本の庶民の暮らしには

神道と仏教が浸透していました。

 

仏教では、南無阿弥陀仏を唱えて

悟りを開くことが求められるというか、

目標の一つとされている宗教です。

 

これはおよそ、目的的、効率的な考え方を

求める資本主義とは相いれないはずの

行動様式でした。

 

その仏教社会である日本のとある一角で、

ある農民がお坊さんに向かって

こういったそうです。

 

悟りを開きたいけれど

日々の生活のための仕事に追われて、

祈ることもできないがどうしたらよいか、と。

 

答えは次の通りでした。

 

南無阿弥陀仏と念仏を唱えながら、

一鍬ひとくわをふれ、と。

 

田畑を耕す行動を祈りの中に組み込み、

それをもって祈りの行動とせよ、

ということですね。

 

この行動様式は農民ばかりではなく、

商人道などでも開花します。

 

こういった祈りの蓄積によって、

 

日本が資本主義社会を築いていく

ベースとなっていったことは

想像に難くありません。

 

社会全体に影響する大きな祈りの話を

しました。

 

この社会の実現と並行して、

個の存在が認められるようになりました。

 

階級、生まれで固定されていた個が、

失敗を繰り返して何にでも取り組める、

という自由を手に入れたわけです。

 

その中で、家族を背負ったり、

志を高く持ったり、

夢を追いかけた人々が

 

それらが叶うことを祈り、行動し、

結果を手に入れていきました。

 

少なくとも、そうすることができる社会を

築き上げてきたわけです。

 

今もまだ、社会は変革中です。

 

マイノリティに優しい社会も

ベーシックインカムも、

 

生まれ落ちた境遇が

人並みの生活を妨げない仕組みも、

 

どこまで実現できるのかはわかりません。

 

ただそれらを必要だと感じて、

その実現を祈る人々の行動が

次の社会を作っていくことは確かだと思います。

 

 

少しばかり、

大所高所から良い面ばかりに注目して

話をしたかもしれません。

 

ですので、ここではあなたについて、

話しをしてみましょう。

 

最初は他力で願うばかりだったけれど、

その実現を祈りながら自ら動きだすとき、

新しい輪郭が見えてきます。

 

時々、祈ってるけど何一つ変わらない

という人がいますが、

そんな人にさえ、祈りの効用があります。

 

少なくとも本気で祈っている間、

あなたを悩ませる怒りや哀しみの感情に

囚われることが少なくなります。

 

自らの内に平静さと希望とを宿し、

そこに集中している時、

 

あなたが追い込まれている現実も

あなたが望む未来も

あなたが日々行う自由への行動も

 

どこかで祈りとつながっていることが

明らかになります。

 

祈りの必要性

祈りの意味

祈りの力

 

そういったものが身に沁みませんか。

 

御大層なことを祈る必要はありません。

 

一言の感謝の気持ちが幾重にも蓄積されて、

あなたの世の中の見方を良い方向に

変えていってくれます。

 

容易に人をジャッジすることなく、

 

変えられないものは受け入れ、

変えられるものを変えていこうとすることを

継続していくことで、

 

あなたが世の中を生きやすくなります。

 

あらゆる自分を大切にし、

哀しいことや苦しいことがあるごとに

見方になることを繰り返していると、

 

やがて同じような人々が集まり、

仲間が増えていきます。

 

他にも、

 

大人になって麻痺させてしまった、

子供の頃のあの夢中になる感動を

もう一度感じられるように生きてみよう、

 

友達や恋人と腹の底から笑いあえるように

人と何より自分を信じて生きていこう、

 

など、祈りが導く未来は、

あなたの過去がどうであれ、

 

怒りや哀しみに満ちたものではなく、

ささやかでも明るく自由で楽しい世界を

描くことができるはず。

 

別の角度から言えば、

祈りはあるところで決意表明にもなります。

 

人の意志の力には必ず限界がありますが、

祈ることは意志を超えた力をも

味方につける効果があるのかもしれません。

 

もう一度申し上げます。

 

感謝の言葉や平安の祈りのように

日常に溶け込ませたいものから、

 

具体的に実現したい自分の想いや志を

形にしたものまで

 

この世界の根幹は、

祈りでできているのではないか、

とお話しさせていただきました。

 

私たちは、そんな世界の一角に

居場所をうみだして、

生きています。

 

ー今回の表紙画像ー

『雪の駐車場』

月曜夜から火曜の朝にかけて大変でした。。。

通勤された皆様、ご苦労様です。