社会人スタートの日は雨で、とても寒かった。新入社員はすべからく前泊の上バスで入社式に向かうことになっていたが、ごく個人的な理由から私は大学の後輩の下宿に泊めてもらっていた。「ありがとな」とまだ寝ぼけ眼の後輩にそう言って玄関を出て、慣れないスーツで会社に向かったときのことは今でもよく覚えている。期待に胸が膨らむどころか自分から監獄に向けて歩き続けている感じがして、どうにも前を向くことができなかった。
生きること自体にとてつもなく息苦しさを感じていることさえ、わかっていなかったのだ。食事も仕事も人と会うことも、まるで機械のように日常を繰り返すことで毎日をやり過ごす感じ。その時は、“これから先”のことについて考えることなどなかった。それをやってしまったら、いくつもの蓋をしていたことに気づいてしまう怖さを無意識にわかっていたからだろう。
蓋をしていたこととは、つまり
- ここまで自分を追い込んだ問題を抱えているという事実を認識せざるを得なくなる
- 問題に気づいたところで解決の糸口さえわからない
- そもそも何が問題なのかわからない
- 自分が何者でもないことがわかってしまう
だから、この苦痛の理由は現実社会の方にあって、世の中は自分に対する敵意で満たされていて、自分はそこからの脱出を試みるべきだ、と妄想していた。その方が精神衛生上、都合がよかったのだ。
必然、恐怖と怒りを押し隠しながら周囲の空気を読んで行動しようとし、全く空気が読めないままどこにもいくことができずにいた。
空気など読めるはずがない。世の中に対するそもそもの受け止め方がおかしいのだから。
そうやって自分に跳ね返ってくる“悪意”なるものから自分の内面をしっかり守ろうとする様は今にして思えば痛々しい限りだが、それは当時の自分にとっての“現実”だったのだからしかたない。それを自分が生きる宇宙と勘違いしていたことに気づくまで何年かかかった。
おかしいと感じてすぐに自分らしく生き生きと生きられるようになればいいけれど、現実は甘くない。自分の身に起こったことは元気を失うことだった。元気を失うとは、いざ行動を起こそうとしてもその度に気持ちが萎えてしまうことだ。もう何というか、動こうとするとため息が出るばかりで体が反応せず、やっぱり何もできないんだ、とあきらめの感覚に襲われる。世の中に対する見方がおかしいことに気づいて自分の状況は改善するはずだったから、これはいったい何なのだと戸惑った。世の中のせいにもできず、自分を修正する結果も出せず、ある意味で一番危険な状況だったかもしれない。もちろん、どんちゃん騒いだりイケイケで目立つことをしようとしたわけではない。
本当に基本的な、人と接するあり方とか、趣味を見つけようとすることとか、朝ご飯を作ってしっかり食べることとかいった、日常生活の中で当たり前にこなしていくところから再開しようとしていただけだ。
それでも、何かを始めようとするたび、嘘のように体から力が抜けていった。何かにシャカリキになっていた頃の自分からは、それこそ信じられないような反応が自らの内に起こっているようだった。
何が足りないんだ、と動かない心と働かない頭を使って悩んだ。
動き出すことができるようになったのは、足りないものなどないと気づいた後のことだ。足りないものがあるとすれば、足りている自分を信じられず、自分の中に既にあるものを使って、自分自身として生きていこうとする姿勢そのものだった。
いつ頃から足りない、と思うようになったのだろう。そう思い返すと、もともとがそういう生き方だったというのもあるが、やはり生きてきた時間が嘘だったと思い込んでしまった瞬間に思いが至る。幸せだった時間をフェイクに見立てることで、大切なものを失った衝撃を和らげようと無意識が取り計らった結果、心身の致命傷はギリギリのところで避けられたかもしれないが、大切な感覚を見失ってしまったのだ。
同じような場所にいる方へ。
私たちは、感じられる自分を取り戻さなければならない。生きるということは自分自身にとっての幸せを見出す旅だ。自分の宇宙とは、その感覚なくして成り立たない。それはかつてあったし、今だっていくらでもある。それを感じ取る唯一の条件は、自らの内に泉のようにわきあがるささやかな感動や満たされ感をしっかりと感じ取ることなのだ。
人によっては難しいこともあるかもしれない。干からびてひび割れた大地のようになってしまった心から、そのような感情が湧いてくることをイメージできない人もいると思う。
だが!
しかし!
それでも!
自分にこの感覚が足りないと感じているのなら、あきらめずに取り戻すことを試みてほしい。この感覚を取り戻すことは、私たちが生きる人生に、そしてこれから歩む未来に余りある価値をもたらす。
怖くても小さくてもいいから、もう一度一歩を踏み出そう。今のこの状況は、自分の力が及ばないことが原因でなってしまった不本意な結果かもしれない。だがこれは、認めたくないかもしれないが、自分自身で選択した結果でもあるのだ。
感じないようにしよう、その方が楽になるし傷つかなくて済む、そうしないと生きていくことが苦しくなる。そう思って、徐々に心を閉じてしまったのだと思う。
もしその位置に留まり続けているのなら、もうそろそろ終わりにしませんか。
今ある、日常、生活、人の関係を、急激に、劇的に変えることはできない。しかし、自分がどう受け止め、どう振舞い、どのように次の行動につなげていくかは、自分で選択することができる。
オグ・マンディーノも言っているように、あるいはイエスキリストが言ったのかもしれないが、人は選択する力を持っている。これまでの“結果”は、そういう選択の蓄積によって導かれた“結果”なのだ。
何でもかんでも俺が私がとする必要はない。何かのことに際して、自分以外の他者が、自分自身が、自分に対して陰に日向に向ける批評の目を、それはある一面的なものの見方であって、「大きな問題では決してない」と受け止め続けるのだ。
反対に、やはり何かのことに際して、どうしようもなく怒りがわいてきたとしたら、その「どうしようもない怒り」自体がそもそも錯覚の中で生じていると理解し、外に向けて垂れ流さないようにしよう。心の内に生じる感情自体を同行するのは難しい。しかし、表現は変えることができる。
自分がいる場所こそが宇宙なんだ。それを呆然と見つめて儚んでいる必要なんてない。今いるその場所も、これから続く未来も、全てはあなたが生きる物語なのだ。
最近のコメント