自分の中に自分の居場所をつくるということ

日々の棚卸

 

私たちがどういう人間かによらず、

家族や仕事や恋愛など日常の関係の中で

トラブったり、別れたり、憎んだりして、

 

それが恒常的になったり、

取り返しがつかないと思い込んだりすると、

 

どう生きたらよいか迷ってしまったり、

基準を見失ってしまったり、

心を病んでしまったりして、

 

自分と、周囲と、社会を疑うようになり、

ひどい時には人生を呪うことがあります。

 

そうならない人もたくさんいるけれど、

そうなったり、なりかけたりする人もまた

少なくありません。

 

ですから、

そうなる人があらかじめ用意しておくべきは、

安全な退路です。

 

なので、私などは、いつどんなときも、

必ず、退路を確保しています!

 

…と言いたいところですが、

残念ながら、

世の中そうそう甘くはありません。

 

何をしているわけではないのですが、

 

人にリアルに働きかけ、

多少なりとも、

役に立つ何かをなしたいと試みる限り、

 

少なくとも、退路が見えない状況に、

心身を添えざるを得ないことも

時にあるように思います

 

これは、金銭が関係したり、

大きな決断が必要な場合には、

特にそう言えるというだけのことで、

 

働くことに限らず、

日常のあらゆることに言えるのは、

想像に難くありません。

 

 

大切な誰かのために何かを行うとき、

人がとても強くなるのは確かで、

 

その時には、誰もが、

 

自らが助かる退路、などということは

微塵も考えることなく、

目標の達成に向けて邁進します。

 

ただ、何が原因かはさておき、

何かをなそうとして、

日常的に感じる心身の軋轢があって、

 

どうにも動けない、

何だかうまくいかな、

というとき、

 

大切な誰かが困苦に瀕している、

ということよりも、

ひたすら自分が窮している、

 

そして、

それを脱する手立てがない、

あるいは思いつかない、

 

という状況が多いものです。

 

この世で最も大切な一人である自分のために

動くことができればいいのですが、

 

昔よく言葉が使われたAC(Adult Children)のように

誰かを助けることばかりに必死になって、

自分の世話を自分でしようとしない、

 

そんな状態です。

 

人によっては、今の自分の良くない状態は

他の誰かが何とかすべきだ、と

暗に思い込んでいて、

 

それが症状として出ていることもありますが、

 

何が理由であるにせよ、

動けなくなっているのは事実。

 

それでも当人にとっては、

兎にも角にも今のうちに、

この状況を何とかしておかないと、

 

そう遠くないうちに、

自分自身がおかしくなってしまう、

 

切にと感じている…。

 

これ以上、

 

ひどい叱責を受け続けたり、

睡眠時間が削られる生活だったり、

モラハラの連続と感じたり、

 

周囲から孤立していると感じたり、

職場の束縛時間そのものが辛かったり、

家の中の居心地が悪かったり、

 

ということが、

進むところまで進んで、

 

それでも何をどうしたらよいかわからない…。

 

『もう一つの居場所』がないかと求めて、

なかなか得られず、見つからず

ヒントを探し続けている…。

 

 

もう一つの居場所を得るために

行動することは良いことだと思います。

 

セミナーやカウンセリングに出向いたり、

転職や起業の可能性を探ってみたり、

離婚前提で新しい暮らしを検討したり、

 

といったことが行われるようになって

久しい社会になりました。

 

そこから新しい世界に向けた一歩を

踏み出している方も随分増えました。

 

しかし、心身を害してばかりだったり、

最後の一歩がなかなか踏み出せなかったり、

踏み出した先でも同じことが繰り返されたり、

 

といった状況もまた、よく見られます。

 

もしあなたがその一人であったなら、

次のことをお勧めします。

 

最初は月並みな表現ですが、

自分の中に自分の居場所を作るようにする、

というところからお話しします。

 

そうは言っても、

自分の中に自分の居場所をつくることは

 

それができていない人には

容易なことではありません。

 

抽象的で、学問的で、理屈であって、

実は具体的にピンとこない人もいます。

 

何せ、自分の中に

自分の居場所ができたということは、

 

逃げ場、退路の確保が“恒常的には”

必要なくなったり、

簡単に思いつく様になったり、

 

というところまできて、

ああ、そういうことなのか、と

納得することだからです。

 

自分の中に自分の居場所ができるとは、

 

『自分が苦しんでいることの本質というか

源流にたどり着き、

 

その自分を抱きとめ、

受け入れることを繰り返す、

 

それができるようになると、

 

それまで自分を苦しめていた周囲の状況が

自分を守ってくれているようにさえ

感じるようになる、

 

少なくとも敵ではなくなるように感じる、

 

その時には、自分もまた、

一方的に

周囲や自分を批判することはなくなり、

 

自分のいたらなかった部分がもとで起こった

トラブルや衝突へも思いが至るようになり、

 

自分の中に自分を受け入れた分だけ、

周囲の歪んだ部分を冷静になって

見られるようになり、

 

そこから突き付けられる批判や叱責へも

どう対処したら自分にとってよいかを

直感的に理解できるようになる、

 

もしそれでも何ともならないと感じれば、

大切な自分のために

その環境をかえることを自然に行う』

 

という一連の流れと世界観が

形成されることです。

 

周囲が、社会がおかしいということに対して、

自分がたたかうのではなく、

 

総体としての人と世界を受け入れることによって、

自分個人の正しい間違いの上位に、

 

落ち着くところに落ち着く、

なるようになる、

 

だから、自分個人の感情に執着しすぎず、

手放すことによって、

流れに身を任せよう、

 

それが実は、自分に対して、

現実的に優しい在り方なのだ、と

知ることです。

 

ここではよく、

当たり前の自分であることが

当たり前であることさえ

当たり前になる、

 

そんな自分の在り方を蘇らせるために

できることを申し上げています。

 

心の原風景を蘇らせることは、

その大きなステップの一つです。

 

物心ついた頃からの数々の光景、

哀しさとか辛さ、怒りの感情の合間に、

こぼれ落としてしまったシーン、

 

学校帰りに友達と笑いあった時間、

冬の公園を駆け回っていた感覚、

夕暮れの図書館の匂い、

 

数え上げればきりがない

そういった、あなた自身にとって

何より大切なはずの、

 

あなた自身を形作る心の原風景を

もう一度皮膚感覚に蘇らせることは、

 

あなたが自分自身として日々を歩むために

最も必要なことです。

 

そして、それらは全て日常の中で

感じ続けたことです。

 

ならば、今現在の日常でもまた、

いかにして自分自身であり続けるか、が

問われることはお判りだと思います。

 

自分自身から怒りや哀しみを

無理に否定する必要はありません。

 

しかし、心の原風景と同じように、

ならばあなた自身であることの別の側面、

 

つまり、世の中を受け入れ、

自分に優しく生きるようにするスタイルも

自分自身であるはずです。

 

私はがんばれと言われるのが苦手です。

それが大好きな彼女からの言葉であっても。

 

そこには様々な力で無理を強制される響きを

感じるからかもしれません。

 

ですが、ここではあえて、

これを読まれたあなたにこう伝えたい。

 

自分自身であることに頑張ってください。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『きんぴらごぼう』

なぜか春と秋口になると、無性に食べたくなって作る。

ちなみに真冬になると、やたらチョコが食べたくなる。

なんでだろう。