恥じ入ったり、言い訳したりすることなく、何か事が起こった時にどのように自分の内面が反応するかを知っておくことは、かけがえのない自分を生きるためにとても大切なことです。
ADHD(Attention-Deficit Hyperactive Disorder=注意欠陥・多動性障害)やHSP(Highly Sensitive Person)(注:こちらは精神障害ではなく心理学上の概念)などの、医学や心理学上の判断・位置づけは、判断の一要素にはなりえますが、それらを含めて、自分をケアすることができる最も身近な人は自分自身でしかないからです。
幼いころから教育されてきたこと。
勉強、
運動、
仕事、
立ち居振る舞い、
モノの見方・受け止め方、
人との関係。
うまくいかなかったとき、うまくできなかったとき、人から指をさされた時に受ける精神的なダメージは、親自体が抱える葛藤や問題を取り込んでいる子供と影響を受けていない子供とでは、月とスッポンほども違うことは容易に想像できます。本来はささいなはずの一つ一つのミスからくる反省の念や、ちょっとしたボタンの替え違いで生じる感情の落ち込みなどが、まるで、男として、女として、夫として、妻として、父として、母として、社会人として、といった役割の価値を失ってしまったかのように突きつけられ「続け」るように感じてしまうのです。時には、このダメージが固定化されてしまうこともある。
これらは自分がうまくいかないことへの免罪符にはまかり間違ってもなりませんし、しないにこしたことはないものですが、“事情”を知り、自分を受け止め、対処していくことは必要なことです。自分が影響を受けた力の強いものへの非難はだれのためにもなりませんが、その感情と実際の影響とを切り離して考えるようにすることは、回復に向けた一つのステップでありコツでもあるのです。
それらを自覚することなく、ただ自分のせいにして自己卑下していると、思わぬところで自分より弱い位置づけにある存在に対して、お前も俺と・私と同じだと言ったメッセージを与えて心を痛めつけることになってしまいます。
先輩→後輩
上司→部下
先生→生徒
夫(妻)→妻(夫)や子
親→子
兄・姉→弟・妹
……
委縮して、開ききらないままの心を、社会に出てもう一度攻撃されてしまうと、生きるための力そのものへのダメージとなりかねません。別の言葉で言えば自分の存在価値、かけがえのなさをつぶしてしまいかねなくなるということです。内面に起こる反応とそれに伴う行動は、曲がりなりにも自分が生き残るための対処として生じた、ある種の自己治療的な要素を含んでいます。だから、そうなる“事情”はしっかりと理解しておくに越したことはないわけです。
大人の条件とは、自活できていることの前に、生(本音)の自分との折り合いをつけて生きることだと私は考えています。この折り合いが自分への妥協少なくついている人は、生きることが比較的楽だと思います。わめき散らし、人を罵りながら生きていく会社員(最近は少ないと思いきや、ブラック企業などでは健在なのですね)などと異なり、その背後にある抑圧された感情と対峙し、収入や地位などより自分の生き方を見直して生き方を変える人は、一見大変そうに感じられるかもしれませんが、実はその人の歩みそのものを軽く楽に、それでいてつながり多く豊かな人生に変えていきます。
それはきっと、社会との距離の取り方だったり、お金の使い方だったり、というのもあるでしょうが、それ以前に自分自身との距離が大きく変化し、間違いなく近くなるはずです。というより、距離が近いことが気持ちよく感じるようになって近づきたくなるのでしょう。
私も偉そうなことは言えませんが、私たちは社会に生きている以上、どうしても自分の状態より社会的に常識と考えることを優先してしまいます。よく企業に勤める人は会社の歯車的な言われ方をしますが、それは企業人に限らず、大なり小なり誰もが感じていることで、しかもなかなかやめることが難しい。それでいて、社会的な常識がどこまで本当に常識なのか、なかなか振り返ることはありません。
一足飛びにかけがえのない自分の人生を納得して歩むようになることは難しいかもしれませんが、今の苦しんでいる自分に対して即時的にできることはあるものです。
それは自分に属する感情であり、だからこそ大切なことはいつも自分の中にある、ともいうのだと思います。
そのことを念頭に置いて、生の自分を遠ざけることなく、どう生きていくか、どうすれば自分が幸せに生きられるか、と考えてみましょう。
心の領域の問題とされるものの効果は、自分の中で納得して実践されて変わっていくものです。一日やったから、すぐ効果を感じることはありませんが、『続けるうちに気が付くと』感じるようになっているものです。
『続けるうちに気が付くと』は自分が納得して生きられるようになるための、逆説的な心掛けですね。つまり、定量的に推し量らないで、習慣化できるようになるといい、ということでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『午前6時半の青空』
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