休みがない日々

日々の棚卸

 

私たちは、

眠っている時間以外は、

起きています。

 

当然と言えば当然ですよね。

 

睡眠時間は人それぞれだから、

起きている時間の長さも

人それぞれなのでしょうが、

 

眠っている時間以外は起きている、

ことに違いはありません。

 

起きている時間の長さは人それぞれ、と

書きましたが、

 

起きている時間に何をしているかもまた、

人それぞれだと思います。

 

そして、

起きている時間に何をしているか、

その時のマインドなどが、

 

起きている時間の長さに、

そして何よりその質に、

大きく影響していると思います。

 

 

標題にもしました、

『休みがない日々』ときいて、

どのようなイメージを持たれますか。

 

文字通り働きづめで、

休みを取れずに疲労困憊の状態?

 

あるいは、

 

休日も出社して仕事をこなし、

ばりばりと成果を出し続ける

ビジネスパーソン?

 

それとも、

 

あくまで平日(所定の休日以外)のみ、

朝から晩まで忙しく働き、夜は

へとへとになって眠るイメージ?

 

以前にも触れましたが、

 

サラリーパーソン(被雇用者)の割合が、

労働者全体の80%とも90%とも言われる

私たちの国、日本では、

 

多くの方は、

週に2日前後の休みがあると思います。

 

休日出勤でもない限り、

5日間働いて2日間休息する、

というサイクルの一週間ですね。

 

簡単のため、土日を休日と考えた場合、

 

あなたは、

 

水曜木曜あたりになると

「もう少しで休みだ」と安堵の気持ちに

包まれたりするでしょうか。

 

本当に安堵の気持ちで満たされるなら、

良いことではないかと思います。

 

経営層側に立つと、

そうとばかりも言っていられませんが、

 

安堵の時間があるというのは、

自分の人生を生きる上で、

大切なことだと私は考えています。

 

その仕事(の質と量)は翌週も続くでしょう。

 

つまり、

 

仕事に伴う心身の負荷、

人との付き合い、などは、

急に変化するわけではありません。

 

だからこそ、その仕事を続けるうえで、

安堵の時間が持てるというのは

良いことだと思うのです。

 

安堵の時間が持てるということは、

 

今やっていることを

それなりに誇りに思っているか、

 

会社に守られてるという感覚を

どこかに持っているか、

 

仕事というのはすべからく、

こんなものかと思って認めているか、

 

のいずれかではないかと思います。

 

いずれにしても、

どこかに安堵を覚える時間があるのは

ありがたいことだと思います。

 

一方、

安堵を覚える時間がないにもかかわらず、

他に選択肢がないと感じている方も

おられるでしょう。

 

休息のはずの時間を

本来の意味で休息にすることが難しく、

苦しまれているかもしれません。

 

そんな時の考え方を一つ、

提示してみたいと思います。

 

 

時計をちらりと見ながら、

早く定時にならないかなと過ごす方は

夜を待ち焦がれているのではないでしょうか。

 

一刻も早く、

今従事している仕事の時間が

終わらないかな、と。

 

夜になったら、

 

ゆっくりお酒を飲むのか、

気の合った仲間で過ごすのか、

鬱憤晴らしに何かをしに行くのか、

 

それともさっさと寝てしまうのか。

 

ともかくも、それをして

翌日、翌週の仕事に備える?という

ルーティンを続けているなら、

 

それはその時点での一つの解なのかも

しれません。

 

ルーティンの継続を担保しているのもまた、

安堵感です。

 

いささか飛躍気味であることは

承知していますが、

 

ある種の諦念も含めて、

どこかに安堵の感覚という幻想を

抱くことができていることで、

 

日々のルーティンをこなしていくことが

できます。

 

まもなく震度7の直下型地震が起こる、

3時間後に体の癌が判明する、

明日にも財産が消えてしまう、

 

そんな状況で今の仕事のルーティンを

守る方もいないでしょう。

 

つまり、

ルーティンが続けられない、ということは、

 

そのルーティンが成立する状況にあることを

信じられなくなった、

と言い換えられると思います。

 

その原因は人それぞれです。

 

仕事そのものであることもあれば、

働き方や暮らす場所の場合もあります。

 

もっと遠因、つまり、

親、家族のこと、過去の出来事に

帰結することもあるかもしれません。

 

それらの原因が顕在化して、

安堵の感覚が得られなくなった、

とも言えるのかもしれません。

 

安堵の感覚が得られていない、

ということが

悪いというわけではありません。

 

それはあなたの人生に

変化の必要性を知らせているからです。

 

どう動くかはともかく、

どこに焦点を当てるかもともかく、

何かを試す必要が求められます。

 

そういう意味では、安堵の感覚というのは、

変化の必要性の指標ともなるわけです。

 

しかし、

安堵の感覚が得られてないことを

認識できていない場合には話が変わります。

 

とても若い頃、

もう何もかも忘れてずっと眠っていたい、

そんな時期がありました。

 

家族が離散した頃のことです。

 

何をどう試してみても、何もよくならない、

自分がどんどん孤独になり、

まともな未来が描けない

 

そんな日々が続く中で、

長く眠っていたい、そう感じていたことが

ありました。

 

実際に、こんこんと

眠っていたこともありました。

 

今の(辛い)生活が自力では変えられないし、

変える気力も湧かないという気持ちが

あったのかもしれません。

 

自分のキャパシティを超える問題を

それまでの拙い経験則から解決しようと、

 

豊富な知識の引き出しがあるわけでもない

頭を使ったところで、

何かを思いつくわけもないものです。

 

今思えば、

いくつもやれることはあったな、

そう思いますが、

 

当時はそう考える余裕もなく、

何かを諦めきることもできないまま、

中途半端な場所に自分を置き去っていました。

 

実際のところ、世の中には、

問題に対しては何かしらの解決方法は

あるものです。

 

まずはその前提で、

諦めきることなく、

自分が安堵の感覚を見失っている、と

 

正面から認識することが

必要だったと思います。

 

それが当時の自分の『現在地』でしたし、

よく言われるように『現在地』を知らないと

 

どこに向かったらよいかわからない

ですからね。

 

 

 

さて、安堵の感覚の有無から

少し話がそれましたが、

 

安堵の感覚がない状況で

どうするかという話でした。

 

ここでは、

こういうほうほうがあるよ、とか、

こんなことやってみたら、

 

という話はしません。

 

ただ、

 

安堵の感覚がない状況を認識して、

あなたなりに行動した結果、

得られるかもしれない日常の一例を

 

述べたいと思います。

 

それは、

休息の時間に行っていること、

考えること、感じることなどと、

 

収入を得ている仕事(と称すること)

との間の境目がなくなっている

ライフスタイルです。

 

起きている間、

 

あなたが読むもの、見るもの、解釈すること、

食べること、書くこと、作ること、話すこと、

心を震わせること、笑うこと、楽しむこと、

 

ウキウキすること、ちょっと面倒くさいこと、

真剣に怒ること、リラックスすること、

休息すること、体調を整えること、学ぶこと、

 

教えること、そういったことが、

 

そのまま仕事の一部となり、

その反対にもなり得る日々ですね。

 

これは、『休みがない日々』とも言えます。

 

面倒なこともあるけれど、

休みがない代わりに、

強制的な仕事に駆り立てられることもない。

 

人生は自分の選択の結果で

成り立っているのだから、

そんなふうに変えることもできます。

 

ー今回の表紙画像ー

『夜の近所の公園』

普段は車で通りすぎるだけのところを、てくてくと歩いていたらこんなライトアップがされていた。歩くと気づくものです。