大切な人の死が伝えてくること

日々の棚卸

 

今年のお盆は天気が不安定で、

お墓参りは雨の中でした。

 

「よりによって土砂降りの雨だよ」

とぶつぶつ言い、

 

それでも片手に傘をさしながら

 

周囲の雑草を抜き、

お墓の表面を洗い、

お花を飾り、

蠟燭に火を灯し、

線香をあげました。

 

僻地でアクセスが不便な場所にあり、

通うのはいささか苦労します。

 

特に愛着のある土地でもないので、

永代供養に変えようとも考えるのですが、

何となく歳月が流れてしまった。。。

 

目を閉じ、手を合わせ、

静かに息を吸い込んで心の中で

近況を伝える“癖”ができました。

 

時に泣き言を言い、

時にかつて周囲同様に与えられなかった

親の振る舞いに文句を言い、

 

それでも最後は

でもまあ、何とかやっているよ

と締めくくるようにもなりました。

 

 

子供の頃から巻き込まれていた

父母のいざこざから逃げ出すようにして、

十代の終わり頃に家を出ました。

 

それでも親子の関係性は追ってきます。

 

ことに母親はそのいざこざを

私に何とかしてほしいと思っているのか、

延々と怒りと泣き言を伝えてきました。

 

家族病理学で引き合いにされる例では、

通常、娘が母親の聞き役になるのですが、

我が家では典型的なACである

息子の私が常に聞き役であり、

また要求された一部の家事の代役でした。

 

その要求がある一線を超え、

子供の立場では対応のしようがない

夫婦の軋轢まで背負わせようとする頃から

父母と疎遠になり、長い歳月が流れました。

 

それから、

直接影響を受けることはなくなりましたが、

 

父母の価値観は見事に感覚として根付き、

それが醸す世界観に悩みもしました。

 

心理カウンセリングや精神医療を学んだり、

自助グループを利用したりした理由でも

あるわけです。

 

両親の生き方ではなく、

自分自身の生き方を振り返り、

自分の感覚にまとまりが出てくると、

 

両親に対する

無用な怒りと軽蔑のフィルタが薄れ、

 

彼らと共に過ごした

懐かしい部分の時間が蘇り、

 

一緒にいて泣き笑い怒り喜んだ人たちを

一方的に悪とする感覚を面倒くさく感じ、

 

彼ら自身が精一杯だったこと、

その中で与えてくれたこと、

そういう人たちと大切な時間を過ごしたことが

事実として入ってきて、

 

未来への希望とか信頼という言葉が

現実味を帯びて感じられるようになりました。

 

 

今現在にまで影響を及ぼすほどの

大切な人々との間のわだかまりは

大きければ大きいほど、

 

距離を置こう、

少なくとも縮めないようにしよう、

という意識が働きがちです。

 

もちろん、無理に笑顔を作って

何もなかったかのように

接することが良いわけでもありません。

 

しかし、目を背けている限り、

距離を置いているはずの過去に

固定されてしまいます。

 

生き方を振り返るということは、

自分の苦しみに目を向けたまま、

永劫にわたって許そうとしない自分に

気づくという側面があります。

 

そうしたければそうすればいいけれど、

そこにしがみつきたければそうすればいいけれど、

それは許さない自分を自分の中に

固定し続けることでもある。

 

そう、実は大切な人々へのわだかまりが

一定以上大きく影響している時、

自分をも許していないことはないでしょうか。

 

命の限りある時間の中で

それは私たち人間にはあまりにもったいない

時間の使い方です。

 

自分の苦しみにばかり目を向けていると

見えないこと。

 

それは自分の大切な人が他界したこと。

その人たちが自分に願っていたこと、

その人たちに自分が願っていたこと。

 

もっと生きたかった、

もっと一緒にいたかった、

もっと幸せになってほしかった、

 

その悔いとも祈りともいえない想いを

自らの中にしっかりと認めると、

自分らしく生きてみよう、という気持ちが

自然に湧き上がってきます。

 

そのためには今自分がいる殻の外に

出てみる必要があります。

 

繰り返しますが、

皆いつか、この世からいなくなる。

 

そこには、

会社の上司や仕事の内容に苦しむ自分を

無視するのではなく、

 

そこに宿る感情に囚われた自分こそが

苦しみの理由であって、

もっと湧き上がってきた気持ちに沿って

生きようとすることで、

 

新しいステージに進む勇気が得られるとともに、

苦しみを感じる対象もまた

自分と同じ人生を歩む一人の人間だと

感じられるようにもなる。

 

自分を精一杯生きようとするなら、

苦しみ哀しみの感情は、

しっかりと認めて、

それから手放しましょう。

 

もったいないんです。

その生き方は。

 

『その感情に』『囚われて』いる間に

私たちはこの世からいなくなってしまう。

 

苦しんでいるなら、悲しんでいるなら、

その程度には

大切な人々、そしてこの世の中に対する愛着が

体の奥深くに根差している証だと思います。

 

ー今回の表紙画像ー

『某センター駐車場からの夕景』

なんか急に涼しくなったけど、湿度が下がらないですね。