心理カウンセラーの中には、純理論的な方法を取る方と、スピリチュアルな考えを併用する方がいます。前者はこの問題はこういうロジックでこう考えられるけど、こうすることでこうなる期待があって、試しにこうしてみようという提案をされたりします(“こう”ばかり言ってすいません)。後者は、不明な領域、未知の部分を認めて、大きな流れに身を任せることを対処の一端に加えています。
実際には後者もまた、どちらかと言えば理論寄りの方と、いわゆる宇宙エネルギーとか波動とかいったスピリチュアルメインの方がいらっしゃる。ちなみに私自身は後者の前者だと思ってます。。。
クライアントの立場からすれば、目的を達せられること、つまり自分が良くなって、あわよくば生活も改善されるのであれば、特に手法は問わないと思います。いちカウンセラーとしても、クライアントたる皆さんはいろいろと試してみた上で、自分にあう方法とカウンセラーを選択すればよいと思います。
こじれてしまった場合に上記のどちらの方法に適合するのかわかりませんが、虚無主義というのがあります。私は遠い昔、新潮文庫版のシャーロックホームズで読んだのがその言葉の意味を知ったきっかけだったように記憶しています。Wikiによると「この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場」とのこと。
何だかよくわかりませんが、今の目的志向の社会、個々人の人生の希望や夢といったものをイメージするとどうにも相いれない(と読めてしまいます)。個人的には、とても生きづらいというかすぐに行き詰ってしまう考え方であるように感じてしまうのです。多分に究極の選択までしてしまいそうな…。
もっとも、どんな主義にせよ、それをして他者に押し付けるのでなければ選択はその人の自由なので、そういう考え方のもとに生きる選択したい人はそうすればいい。
…選択すればいい、と2段落にわたり続けてしまいましたが、往々にして、それができない、つまり選択することを躊躇したり、怖くてできなかったり、不明だったりして、そう言った感情の迷いに対処し、心の新陳代謝を促進する場としてセラピーが必要になると思います。私たちは理想的には他者の承認承諾を得て生きるわけではないので、心の快癒を目指す時のゴールの一つは、自分で決め、自分で承諾を与え、そこに畏れ怯えることなく生きることができるようになることと考えています。
実際には、自分で決め、自分で承諾し、までは何とかできても、その後びくついてしまい、生きることに二の足を踏むことは多いもので、その時、私たちが所属している社会、世の中が自分だけではない多くの人の上に成り立っている現実をあらためて思い知らされることがあります。要するに、自分がそうしたいこと、そうでありたいこと、を念頭に日々生きていくと、どうしても他者や社会と衝突する部分はあるわけで、その時には衝突に至る経緯から内心の考えや感じ方まで、自分との接し方が問われることになります。
そこで躓き、八方塞がりの状態に陥った際に、一度立ち止まったり、一歩引いてみたり、自分と相談するフェーズを設けたりできればいいのですが、残念ながら、それができなかったり、そうしたとしても余裕がなかったり、あるいはあきらめてしまったりすることがあります。時には、廃人のようになってしまったり、世を恨んで生きたり、この世から消える選択することさえも。
もっとも、そんな状況の際には、恨むとか怒るという感情にフォーカスできる状態自体、とうの昔に通り過ぎていて、孤独の無限ループの中で自らがこの世に存在していること自体を再現なく批判するかのような思考や胸の締め付けなどの感覚に襲われているものです。それこそ、頭のてっぺんから足のつま先まで、全身を何度も血が逆流するような震えや内部崩壊感に襲われ、自分そのものを見失う状態が常態化していたりする。
そうなってから、何かを考えたり、想ったり、願ったりするのはなかなか難しいもので、それは自死した自分の父のことを思い出すまでもありません。
この世から消えてしまいたい。そう思う方はいると思います。
あいつを消してしまいたい。やっぱりそう思うことだってあるでしょう。
自分は生きる価値も愛される価値もないし、存在してはいけないと思うことも。
この世は間違っているし、妻は夫は親は上司は彼は彼女は最悪で…。
……………
そういった感情が、あるいは無感情が、自分か他者か、あるいは社会全体なのか、どの方向を向いているかは問題ではありません。
きっとあなたのやり方で、出来ることをやって生きてきた結果、芽生えてしまったものなのでしょう。
守るべきもの、世間体、人のあるべき姿、そういったものを可能な限り踏襲しようとして、これまでの人生を精一杯駆け抜けてきて、足が動かなくなってしまったのだと思います。
そんなことを否定したって何も始まらない。
どうでしょう。
この辺で、生き方を追加することを検討してみては。
こんな提案はしないで済むなら済ませたい。だって、あなたは信じてきたことに従って何十年も生きてきたのだから、生き方なんて、今更そんな根っこの部分を変えるなんて、これまでの自分を否定するようなことをするなんて、これまでの歩みは何だったんだって私なら感じてしまうから。
これまで生きてきた自分はいったい何だったんだと、選択肢の喪失とともに思うようになると、一瞬の強烈な憤りの後に、今度は凄まじい重力場の世界にいるような重たさで体が動かなくなる感覚に包まれてしまう。重力場は物理的な働きばかりか、心にまで働きかけ、やがてある一定の方向へ向かう力を生むようになる。
こういうのを絶望というのかもしれません。そして、この状態を理解できず、感じられない人から、ただの甘えに見られたり、「知らねえよ、そんな奴」なんて鼻で笑われるところを想像してしまうかもしれません。こうなると、誰かに話すという行為さえ彼方に消えている。
こうなる危険を感じている方は、そうなる前にちょっとだけ下記を読んでみてください。
人のことはいいんです。
こう受け止めてみてください。
これまでの自分を1からリセットする必要なんてない。そんなこと全く必要ない。
ここまで自分なりに生きてきた(という大事業をこなしてきた(これは紛れもない事実なんです。気づいてますか?))一個の人間が、そんなことを考えて、今更無理なんて行き詰って、自分でこの世から消えてしまったり人を消してしまったりなんて、極端に走ることなんてない。
やることは、
自分の内側に、これまでの自分を受け入れる、といういつものこと。
加えて、もう一つ。
これまでの生き方の外側に、自分を含めて人を“判断(Judge)しない”という新たな指針を付け加えるんです。
上の二つを心がけて人と接していくと、世の中が新しく見える部分が出てくる。というより、世の中の見方が変わってくる。少なくとも、自分や人を究極の行動に導く方向に考えが向かなくなる。
そうやってできた余力の中で、必要ないことや害になることはやめていけばいいし、追加で力を得たいところは始めればいい。
実は、そんなドラスティックな変化はないはずなんです。
1つだけ大きな変化を感じるとすれば、世の中は自分を追い詰めて生きる場所ではなくて、自分の望みと折り合いをつけながら歩む世界だということでしょうか。
本来豊かな現世を否定する必要なんてどこにもないんです。
今日の取り組み :自分を受け入れること
:人を判断しないこと
ー今回の表紙画像ー
『朧月夜の最終列車?』
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