消えてしまいたかった?

日々の棚卸

カウンセラーなどと名乗っているけれど、困惑したり、戸惑ったり、想い悩んだりすることは日々ある。別に恥ずかしいことだとはかけらも思ってなくて、そんなときに自分なりに対処する方法があるせいか、困惑し、戸惑い、想い悩むに任せている。

3月も実はそうやって書けないことがあるままに過ぎていった。

 

3月は、私の父が自死を選択した月で、彼の誕生月でもある。

随分時間が経過し、その間に試みた自分に対するケアによって、過去が現在に襲いかかってくることはなくなり、あの頃の自分を冷静に振り返ることができるようになった一方で、父の選択には今でも“なぜ”が消えない。逆に言えば、そんなことを想い悩める程度には、彼との安定した心の距離が得られるようになったともいえる。

父は、消えてしまいたかったのだろうか。

 

3月は花粉症の季節で何年も苦しんだけれど、ここ数年は随分症状が緩和された。食べ物、生活習慣、心のケアなどが関係するのかもしれないし、ガチガチに固めた花粉ガードグッズのおかげなのかもしれない。

花粉症が発症したのは父が他界した後のことだ。うららかな春の季節を楽しめなくなった心持ちとあわせるかのように訪れた症状は、いまからすれば自分の心と体を見直すメッセージだったようにも思える。何せ、症状が出始めた頃は、単に症状というより、体自体が重く痛くなって動くことが苦痛になったほどだ。頻繁に発熱する年が続き、解熱剤をもらって下げても薬が切れるとすぐぶり返すものだから、最初は花粉症の影響くらいに受け止めていた医者も、首をかしげて困り果てるようになっていた。「知恵熱かなんかじゃないかな、難しいことやってるようだし」とうだつの上がらない電子技術者であることを伝えていたせいか、苦笑交じりにそんなことを言ってくる始末だ。自分の苦しみを誰とも分かちあおうとせず、抑うつから目を背けるように働き、エクササイズをこなしながら、自作の料理に凝り、一度は荒れた周囲の友人知人たちと表面上は和解し、と対応しながら、もっとも必要だった自分自身の内面のケアや落ち込む時間を持つことを避けるうち、自分の中を占める感情とのギャップがもたらす負荷が疲労となってどんどん降り積もっていったと思う。

まだ心の仕組み、人の感情、家族というシステムについて、頭でしか理解していなくて、自分の奥底にしっかり根付いてしまった醜い自分(思い込んでいた自分)を全く許していなかったのだと、今ならわかる。

 

長い歳月がたって、私とお会いする方々のみならず周囲を見渡してみると、ああ、そうなのか、と思う。

つまり、

大げさに聞こえるかもしれないけれど、

極論に想えるかもしれないけれど、

 

みんな、どこかで、自分を、許していない

 

誰に対して、何を、許してないのか、は人それぞれ……というわけではない。

だいたいは決まっていて、一番奥底で許していないのは自分自身なのだ。

そのメタファー(暗喩)に使われているのが、親、伴侶、社会だ。

そして、自分は独りぼっちだ、誰も理解してくれない、なんて嘯く人までいる。

ほんとに独りぼっちだと思うなら、自分を含めた何もかも許せるはずなんだけどな。

 

カウンセラーとしてあるまじき発言だろうか。

 

恥ずかしくて、みっともなくて、ここにいる価値がなくて、つまりは『自分が思い描いたはずの自分』になっていないことに“耐えられなくて”消えたいと思い込んでいる時、それは世界が憎くて仕方がない時と言い換えてもいい。正反対のことを言っているように聞こえるかもしれないが、ある感情が自分か、自分以外の誰か・何かか、つまりどちらを向いているかの違いだけだ。そして、行き詰って、それでも『自分が思い描いたはずの自分』を手放せないでいると、やがて現実とのギャップに耐えられなくて、本当に自分を消してしまう。本当は、それ以外にも(生きていたい)様々な自分が自分の中に息づいているのだけど、あまりに大きな想いとともに生み出した“あるべき自分”だけがあまりにも暴走してしまい、それ以外の自分を無視してしまった結果とった行動なのだろう。この辺りは以前にも以下のブログなんかで書いたので参照してほしい。

https://nakatanihidetaka.com/relational_life-2/

 

達観した作家やカウンセラー、医者の中には、人の自死に対して次のように言うひともいる。死にたければ止めることはしない、と。私には、死のうとする人を止める権利はない、と。責めるつもりは毛頭ないし、肉親が自死したからと言って、お前は間違っているなどというのは筋違いもいいところだと思う。

ただ、私はそこまで達観できない。

死を選ぼうとする全ての人へ伝えたいこと、それは、何が何でもやっぱり生き抜いてほしい、ということだ。

 

私たちは平和な街に暮らしている。

冬の空は今も高く澄んで、

海は青くて(ちょっと波立ってるけど)、

一時は汚染されてどうしようもなかったはずの川も透明度を取り戻すようになった。

「じゃ、雨後の泥水どうなんだ」というもう一人の自分の突込みがチラッと聞こえてくるけれど、釣りをやるせいか、そんな日は日中でもウナギが釣れる可能性があるから胸が躍るだろ」とやり返す。

まあ、言い出せばきりがない突込みは置いといて、

葉桜の季節になった今も、

遊歩道の際に、

街路樹の陰に、

川のほとりに、

民家沿いに、

赤や、

黄色や、

紫や、

白や、

青や、

ピンクの、

それこそ色とりどりの花が咲いている。

陽の光はさんさんと輝き、

夜空の月は風流だ。

折しも、今夜はスーパームーン。

街中でも、

街外れでも、

くっきりと見て取ることができる。

父はきっと、この言葉も知らなかったと思う。

少し街を遠ざかれば、鶯のさえずる声を耳にする。

汚染とは無縁の柔らかい風が、心地よく通り過ぎていく。

いつまで続くかわからないけれど、日本はおそらく先進各国の中でも有数の豊かで平和な社会を実現している。私は、一度は殺してしまいたいほど憎んだ父と母、そしてその世代までの人々によって作り上げられてきた素敵な街に暮らしていると思っている。その風景を、季節を、人のつながりを、美しさを、感じ取ってほしい。こんな贅沢、そうそう得られない。

 

きっと、あの頃の闇の中に暮らしていた自分に言い聞かせたら、顔面に膝蹴りされる。これまでにも何度もそんな気がした。

それでも大切な自分。

あの頃の自分がいて、今の自分がある。

そんな影の暗がりに暮らしていた自分について、今度書いてみようと思う。

 

ー今回の表紙画像ー

『藤沢某歩道沿い - 葉桜』