怒りを腐らせたまま被害者で居続けないように

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駅に設置されたテレビで

あおり運転の報道を目にしました。

 

電車が到着してすぐに去ったので、

事故ではなかったようですが、

詳細はよく知りませんが、

 

前方を走っていた車をあおった後、

前に割り込んできて車を止めて降り、

怒鳴り込んできたという話のようでした。

 

説明の字幕を見ると、

混んだ電車の中でいざこざを起こす人と

あまり変わらないような気がします。

 

問題は、生身の人間同士が衝突するより、

圧倒的に命の危険が大きくなることです。

 

その想像がつかない人は、

おそらくいないでしょう。

 

にもかかわらず、“ある種”の人の中には、

あおる行為が優先されているようです。

 

“ある種”とは何なのでしょう。

 

これは、

あおり運転をする人を批判する意図で

書いているわけではありません。

(あおり運転は良くないですよ、もちろん)

 

ただ、あおることが怒りをぶつけること、

と解釈すると、

“ある種”の意味が見える気がします。

 

 

会社の中で、派遣さんや部下など、

自分より弱い立場の人や

すぐに自分に影響がない人々に向けて

 

陰に陽に、陰険どろりと振舞う輩を

何度か見ました。

 

当人は正当に怒っているようですが、

傍から見ると、とても狡猾な

“いびり”に見えなくもありませんでした。

 

完膚なきまでに怒鳴られたり、

人格を否定されたり、

恣意的に規則違反を促されたり、

 

といったことは、

今では立派なパワハラで法律違反です。

 

そんな状況にあるならまず、

自分をしっかりと守ることを

最優先した方がいい。

 

ですが、それとは程遠い状態で

少しでも自分が批判されたり、

意見が否定されたり、

 

といったことをきっかけに、

 

不貞腐れ、睨みつけ、無視し、

あからさまに侮蔑の態度で接する。

 

ほとんど子供だなと思いながら、

関わらないように見ていましたが、

 

そういった人々が、

先にあげた“ある種”の人と

同じだと今ならわかります。

 

 

怒りは誰でも抱きます。

 

ただ、その感情に振り回されるかどうかは

自分と向き合う中で

ある程度決めることができます。

 

問題は、怒りが処理されず、

腐ったまま抱えている場合です。

 

その中には、怒りを笑顔で明るく表現して、

同じように振舞う人もいます。

 

そして、今現在の怒りの元が些細であっても

『復讐』の感情がむくむくと

湧き上がってくる人がいます。

 

“ある種”の人とは、

『復讐』の感情を満たそうとしている人

…なのかもしれません。

 

彼・彼女は、被害者で居続けています。

 

平たく言えば、

彼らなりのトラウマが心の中に

あるのではないでしょうか。

 

苦しいだろうな、と心底思います。

 

決してあおり運転も社内のいびりも

肯定することはできません。

 

ここで述べたいのは、

怒りが腐って『恨み』になっていると、

 

些細なきっかけがもとになって、

おかしな行動に走る、

というメカニズムです。

 

ここまで極端ではなくても

微妙な意地悪は

どこにいても起こりえます。

 

怒りが腐ったまま

胸の中に『恨み』が巣くっていると、

 

自分のことを、『被害者だ』と

思うようになります。

 

その感情が強烈であればあるほど、

そこが人生の定位置になってしまう。

 

誰かに被害者であることを

認めてほしい自分が住み着き、

そして、嘆き続けます。

 

私はそんな彼らのことを

完全に自分とは別の人種として

遠ざけてしまうことができません。

 

 

ずっと昔、家族の形が崩れた頃、

私は随分世の中を斜に構えて

見ていました。

 

車は持っていなかったので

あおり運転はしませんでしたし、

 

気が小さいので、

周囲に当たり散らすこともなく、

 

ただただ、自分の中に何をどうしたらよいか

わからない感情を抱えて、

途方に暮れるばかりでしたが、

 

人の善意も意に沿わなければ

悪く解釈してしまうようなところがある

若造でした。

 

その在り方は結局のところ、

自分自身を苦しめるばかりでしたが、

 

そのことに気づく余裕もなく、

自分が『被害者』であることを

認めてもらおうとしていた気がします。

 

自分を認める心持ちも感じられず

弱り切って生きる気力を見失っていた自分に

『そのままでいい』という

“免罪符”がほしかったのかもしれません。

 

どうか私を許してください、と。

これ以上頑張ることができません、と。

これ以上責めないでください、と。

 

誰が責めてくるわけでも、なかったのですが。

(母親からの言葉には随分苦しんでいましたが)

 

自分で自分を守ろうともせず、

自分に対して冷たかったけれど、

それほどに正体不明の罪悪感を抱えていました。

 

今はそんな自分を見つめて

その頃の自分と和解出来ていると思いますが、

 

そうなるまでに少しばかり

時間がかかったのは

時々書いているとおりです。

 

こんな話をするのは格好悪いですが、

それでも何とか生きてこれてよかった。

 

これを読むあなたがそうでなければ

いいと思います。

 

でも、仮にそうであったなら、

 

自分を守り、

大切にし、

自分の人生を生きるとは、

 

被害者の国から

出ることだということを知ってほしい。

 

あなたに起こったことは

とても不幸だったかもしれません。

 

心も体も魂も引き裂かれるような

そんな残酷で哀しい出来事を経験したら、

人はおかしくなるものです。

 

だから、そんな感情に囚われている時は

しっかり休むといい。

(パニくっていると夜も寝られませんけどね)

 

そしてその感情が、

外ではなく内からきていることを

感じ取ってみてください。

 

そこに向き合うこと、

そして向き合いながら自分を優しく

抱きとめる術を身に着けると

 

世の中が違って見えてきます。

 

本当はもう、あなたは救われているんです。

ゆっくりでいい。

それを感じ取ってほしいと思います。

 

ー今回の表紙画像ー

『雲の脇から光が…』

川に行ったら、大きな雲の横から光が差し込んできれいだったので、思わず撮ってしまった。