感情を消そうとしない

日々の棚卸

 

相手や場所や自らの体調など、

日常の様々な状態や状況にあわせて、

 

小さなものから大きなものまで、

私たちの中には様々な感情が

湧き上がっています。

 

湧き上がる感情には、

幸せを感じるもの、ウキウキするもの、

感動するものもあれば、

 

感じると辛いもの、哀しいもの、

嫌なものもあって、

 

実はその感情のもとには、

それぞれの私たちが存在していて、

私たち自身が無意識に使い分けています。

 

自分の中に複数の自分がいるなんて

おかしなことを言っているように

聞こえるかもしれませんが、

 

私たちは嫌なことがあって塞いでいるときも

おかしなことがあれば笑うこともあるし、

 

一人で楽しいことに没頭しているさなかに

ふと寂しさを感じることもあります。

 

つまり、私たちは一つに統合された、

複数の人格の集合体ということも

できるかもしれません。

 

感じたくない感情、

感じていいたい感情、

それぞれあるけれど、

 

ある特定の感情を強烈に感じるとき、

何が起こっているかと言うと、

 

例えば私たちが10人の私という人格で

構成されているとして、

 

その中の1人が強烈に、

その特定の感情を感じていて、

それが他を圧倒して支配的になっている、

という場合もあるかもしれませんが、

 

10人中7人が大なり小なり、

その特定の感情を感じているが故に、

 

全体としての私もその感情を

強烈に感じている、ということも

できるのだと思います。

 

特定の感情が、楽しさ、嬉しさなら

誰しもがWelcomeだと思いますが、

 

怒り、哀しみ、憎しみ、落ち込み、無力感

などといった感情だったりすると、

あるいはその感情が長々と続いたりすると、

 

日常は辛いものになります。

 

辛いと一言で書きましたが、

実際には人生を降りたくなってしまう

気持ちになることさえあります。

 

実際、

自分の中で収拾がつかなくなっている時、

 

私たちは思いもよらない、

おかしな選択肢を取るようになります。

 

だから、

 

その感情の暴走を許してしまったり、

 

感じることが辛いからと

切り離してしまったり、

無視したり、

 

あるいは、

お酒や薬や快楽行為などの嗜癖で

麻痺させてしまったり

 

といったことは、

半ば日常的に行われていたりします。

 

このパターンを記載するだけで、

何ページにもなってしまいますが、

 

そのような状況にある時、

確実に言えることは、

 

私たちのものであるはずの特定の感情を

飼いならそうとしたり、

真摯に向き合ったりすることがなく、

 

故に、

自らと一体化するしようともしていない、

ということです。

 

 

つらつらと書いてきましたが、

これは若い頃その真っただ中にいた私が

心理を学ぶ中で理解した一部です。

 

父が家を出て家族の形が崩れた時、

自死者が出た時、

その後を追おうとする者が出た時、

 

自分の中を何かが凄まじく突き上げ、

心の骨格がぐちゃぐちゃに崩れ、

自分が生きていること自体を嫌悪して、

 

自分の中から湧き上がってくる感情、

怒りや、絶望や、哀しみや、

そういった感情をどう処理してよいかわからず、

持て余していた時期がありました。

 

持て余すと書きましたが、

実際にはそれらの感情は当然ながら

凄まじい勢いで私の中で暴れ続けた状態で、

 

それを外に出してしまったら、

自分の社会生活はとんでもないことに

なるかもしれないし、

 

自分のセルフイメージ自体を

とことんまで下げてしまうかもしれない、

とも感じていて、

 

一方で、それほど強烈な感情に

翻弄されたこともなくて、

 

放置しようにも

暴れまくっているのは自分の中なので、

自分自身が痛くて仕方がありませんでした。

 

やったことは言えば、

 

浴びるようにお酒を飲んだり、

いかにも陽気な調子で周囲のメンツと

連夜の馬鹿騒ぎを繰り返したりして、

 

自分のものであるはずの

怒りや、絶望や、哀しみの感情を

 

必死になって麻痺させたり、遠ざけたり

しようとしていました。

 

お酒を飲んでいた頃は本当にひどくて、

意識を失う直前まで飲み続けていたので、

翌朝は最悪でした。

 

そんな生活をしばらく続けていると、

当然心身にガタはくるし、

自分を欺くにも限度はあるし、

 

ということで、

 

やがて、理由はどうあれ、

起こったことは起こったことだ、

と受け入れざるを得なくなりました。

 

そこからさらに時がたつほどに、

独りになりたいと感じるようになり、

家に寄り付きたくなくなっていました。

 

今思い出しても、

夜更けの駅に到着して、

しばらくぽつんとホームに立ち尽くし、

 

それから、

シャッターがおりた小さな町の商店街を

とぼとぼと歩き出すのですが、

 

夜の町は人気が途絶えていて、

その中を近寄りたくない場所に向かっていた

あの時はほんとに寂しかったなあ。

 

友達に連絡を入れるわけでもなく、

とぼとぼと歩きながら見上げた、

お月様が浮かぶ夜空が妙に澄んで見えて、

 

通りかかった夜の公園からこぼれてくる

街路灯の灯りがえらく明るく感じられました。

 

人は無駄なことはしない、と学んだあと、

 

あの時のぽつんと一人街に佇んだ自分は

何の感傷に浸っていたのだろうと

考えたのですが

 

しばらくの間、

答えはわかりませんでした。

 

それがわかったのはずっと後のことで、

 

つまり、心の奥から訴えてくる自分が

何を言いたかったのかを、

しっかりと知りたかったということです。

 

寂しさを感じる自分“たち”と会い続け、

 

裏返せば、

寂しさを感じている自分“たち”と

自分は会いたかった、

 

そして身体の中の見失いつつあった

家族の懐かしさをしっかりと

身体に記憶しておこうとしていたのかな、

 

とも思います。

 

 

時々申し上げる、

見失った、無視した、いないことにした

自分との邂逅の大切さは

 

言葉を変えて言えば、

複数の人格である“全ての”私たちを

無碍に扱ってはいけない、

 

特に感情的に暴走している人格ほど、

丁寧に接し、

決して、『消してしまおうとしない』。

 

都合の悪い感情をそれ故に、

無視したり、見ないようにしたりすることは

私たちの心を構成する血肉の一部を、

 

それも、今最も答えが欲しいはずの

その答えを含んでいる一部を

 

強制的に切り離すことで、

それこそが自らを傷つけていることを

知ってほしいと思います。

 

切り離して良い自分など、

ただの一人もいないことは

いつも申し上げている通りです。

 

自分と仲良く。

 

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nakatanihidetaka.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nakatanihidetaka.com/business/

 

 

ー今回の表紙画像ー

『海の幸』魚屋に行ったら、ブリが目に入ったので迷わず

水槽を掃除した。ついこの間までウナギ君が暮らしていたのだが、真夜中に脱走してお亡くなりになってしまった。この季節、彼らは水を上がって陸を這ってでも餌を探す習性がある。ここ数年問題なかったので、つい気を抜いてしまった。。。