学歴社会という言葉は昔からありますが、
その重みが時代によって
ずいぶん変わってきていると思います。
誰もが簡単に、
大学に行けるわけではなかった時代。
大学院は一般的ではなかった時代、
猫も杓子も
大学に行くことを推奨されていた時代、
大手企業が簡単に?傾いてしまう時代、
グローバル競争でアジアどころか
世界中と競争する必要がある時代。
学歴社会と言いながら、
その価値基準はどんどん変化していき、
求められることもまた、
時代とともに変わってきています。
これらを子供に伝え、教育するのは
多くの場合、親です。
学校の先生といいたいところだけど、
動機付けや、
願いの注入などを考えると、
やはり実質的な大元は、
親だとするのが素直な見方だと思います。
大学に行ってほしい、
大学に生きなさい、
さもないと、と
なだめ、透かし言葉を繰って
その大切さ(?)を伝えます。
大切さ(?)となりますよね。
もちろん中には、
好きに生きろ、と
親身に伝える親もいるでしょう。
でも、意外に多くの親が
なんだかんだと、
未だに大学という言葉を口にします。
我が子を親身に思うが故、というと、
反発を覚える方もいるかもしれませんが、
言い方、表現の仕方はどうあれ、
あるいはそれが正しいかどうか、
子供にとってあっているかどうか、
ということはさておき、
根っこにあるのは親なりの教育観です。
大学に行っておけ。
できるなら良い大学へ行け。
金はそうないから、
医学部と留学はだめだ。
行くなら国公立だ。
金は自分で稼いで学費を払え。
などなど。
もちろん、
教育本来の目的からしても、
これまでの企業の栄枯盛衰からしても、
家族の状態や人の健康性からしても、
大学に行くことが必ずしも
正しいことではないことは、
証明されています。
にもかかわらず、
猫も杓子も昔も今も、
スポーツや芸能や
そんな若いうちから見えてくる
ほんの一部の才能開花の人以外、
大学に行くことが当たり前になっている。
実際に、幸せになっているか、
と振り返った時、
必ずしも大学が、
学歴が、
影響しているわけではないことは、
皆が感じ取っています。
不思議ですね。
ろくすっぽ学校には行けていない人が、
世の中的には数多くいて、
収入も
家族の仲の良さも
友人関係も
趣味の充実も、
何より当人の生き生きとした生き方も、
飛び切りだったりすることがあります。
皆さんも身近で
見たことがあるのではないでしょうか。
どんちゃん騒ぎをするというのではなく、
いつも朗らかで、
夫婦仲がよくて、
ちょっと大きな家に住んでいて、
そんな方が中卒で、
誰もが見向きもしないような
つまらなかったり、
3Kと呼ばれるようなことだったり、
そんな仕事をしながら生きてきて、
素敵な老後を送られている。
私はそんな方に、
私の趣味である釣りに出掛けた折、
何度か会ったことがあります。
カウンセリングの場でお会いしたことは
まだありませんが…。
釣り場でお会いするときは、
不思議なくらい、
周囲に人がいないときで、
好々爺というわけではありませんが、
自然に話が始まり、
最初は魚の居場所に始まり、
次に日本の政治や世の中の風潮やと言った
よしなしごとになり、
やがて気づくと
感謝の言葉を聞くようになります。
物のない時代に育った
年配の方ばかりというのもあるのでしょうが、
今はいろんなものがそろって
とても生きやすい時代だ、
と言われます。
若い方が楽しいことを
いろいろ始めてくれるので面白い、
と言われたことも。
話を戻すと、
実際に大学に行けるかどうかはともかく、
こういった生活を続けてくるうち、
社会に出た後、
ある種の“症状”を呈することがあります。
自分の体や心に異常をきたすほどに、
仕事や、お酒や、ギャンブルや、稼ぎや、
そういったものにのめり込んでいくことです。
あるいはその裏返しで、
人との付き合いが希薄になったり、
引きこもってしまったり、
ということもあります。
依存症と呼んでも差し支えないでしょう。
いずれにしても言えることは、
自分自身とのつながりが
とても貧しくなっていることを示す
“症状”です。
依存症=ホリックは
自分とのつながり、
人のつながりを失うほど、
ある種の評価を求め、
それを一時得たような錯覚に陥り、
心と体を崩していきます。
生活を支え、
家族を支え、
幸せを守る
という大きな目的の一つを
達成するための手段であるはずの生き方が
いつしかその延長上で、
目的化してしまっていて、
それが得られるはずのものも得られないまま
心身を蝕んでいくという
逆説的なサイクルを作っています。
依存症の話までいかなくとも、
趣味から仕事まで、
求める評価は人それぞれです。
その求めるものが、
心の底から欲するものであるのなら、
それもいいでしょう。
ただ、この価値が
人によって大きく異なること、
評価とは関係ないことを、
私たちはわかっているようでいて
実はよくわかっていない
行動をしてしまいます。
人によって大きく異なるとは、
例え、親と子、兄弟間であっても
例外はありません。
確実な成功の物語。
我が子をできるだけ苦しめることなく
将来を約束させたい、
そう思う親のエゴであり、
同時に自分ができることとして
確実に認められることをしてやりたい
という願いでもあるでしょう。
そんなプログラムのもとで
大人として社会で生きる人が
確実な成功をつかもうとして、
あるいはつかみ続けているとして、
壊れていくのは本末転倒です。
そんな状況が見えるようになって
久しくなっています。
ー今回の表紙画像ー
『近所の川の夕景』
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