自分を苦しめている感情はどこからきている?

日々の棚卸

1.サラリーマンという孤独?

サラリーマンは一緒に働く人がいます。

当たり前といえば当たり前で、

個人事業者ではないので、

商品開発を行ったり、

営業を行ったりして、

その時は一人でも、

会社に戻ったり、

会議に出たりすると、

目的(企業理念)を共有する

もう一人の人がいるわけです。

 

人が複数いるところなので、

(昨今はなかなかそうもいかないようですが)

仕事の合間によしなし話をしたり、

個人的な悩み事を話し合ったり、

飲みに行ったりしながら、

気心が通じる間柄になることも

期待できなくはありません。

 

でも、実際に会社の中で、

いわゆる友達を作ることは

昇進するほど難しいとも言われます。

そこでは親しく話をしたとしても、

一歩会社を出ると関係は薄くなる。

会社で友達を作るのは間違いだ、

欲しいなら私生活で作れ、と

主張する人もいますが、

会社勤めの時間と、

会社勤めからくる疲労と、

会社勤めで感じる疎外感が、

私生活で使う余力を削いでいる

というのは一片の事実。

 

大勢の人が周囲にいて、

収入を得て、

つながっているように振舞って、

でも本当は、

とても孤独なサラリーマン。

 

サラリーマン全員がそうなでは

ないのでしょう。

本当にやりがいを感じながら、

組織をうまく利用して、

生き生きと日々の仕事をこなす、

そういう方もやっぱりいます。

しかし、会社というフレームの中で、

自分の居場所、

自分の価値、

自分にとってのつながりを

見失っている人は

決して少なくありません。

 

おそらくは、生活と収入の安定のために

雇用されることを選択したサラリーマン。

家族のため、生きるためと言いながら、

ゆっくりと自らの魂を削り、

大切な人々との関係性を、

会社を優先することで破壊している。

 

2.本音の否定が常態化している

私たちの周囲を取り巻く環境は

私たちの思い込みが作りあげています。

生きていくため、家族のため、

そして世間的な見栄、

という譲れない思い込みによって、

その環境があらわれ、

私たちを動けなくさせてはいないでしょうか。

その時、命を削られている自分の本音も

環境によって封じ込められ、

そこに居続ける必要があるという理由に

すり替えられていないでしょうか。

この環境は変えられないのでしょうか。

 

このままではじわじわと、

大切なものが失われていくことになります。

気がついたら、あるはずの大切なものが

なくなってしまっていた、

という状況を招き寄せています。

ちょうどゆでガエルのように。

ちょうど何かの依存症のように。

 

変化したいと思うけれど、

気がついたら、変化できないほど

自分が混乱し、おかしくなっている。

変化できないのは、

その基準となる本音が

自分自身からも隠されてしまっている

からではないでしょうか。

 

3.感情は常に他者とともにある

誰かに腹を立てたり、

誰かを憎んだり、

一人孤独に苛まれているとき、

とても苦しいけれど、

その感情自体の中に、

本音を知る手掛かりがあります。

そういう意味では、

無駄なことは何もないですね。

 

そこに芽生えた感情自体に

嘘はないでしょう。

嫌な人は嫌だろうし、

あわない人はあわない。

ぐるりと回って自分自身の中の

気に入らない部分をその人に

投影していることもあるかもしれません。

理由はどうあれ、

湧きあがった感情自体に

嘘はないと思います。

一方で、私たちは感情を選択しています。

聞いたことがある方もいるでしょうし、

疑義を呈する方もいると思いますが、

私たちは感情を選択しています。

 

以前この話を聞いた折、

私は自分が感情を選択していることを

とても受け入れることができませんでした。

もともと数ある選択肢の中から

今の感情を選択し続けるうち、

パターン化したためであったということ、

その選択の仕方もまた、

環境や気質によるものであったことに

気づいたのは少し後の話。

そして、その感情を選択したとき、

『孤独、一人』を感じたのが理由であれば、

その裏側にもう一つ、

とても大切な感覚があります。

 

なぜそんな気持ちになるのか、

ほんとは自分が一番よく知っています。

 

心の奥底では、

人とつながりたくて仕方がない、

でもつながれた感じがしない、

そういう自分がいます。

つながりは自分が感じるよりずっと

奥深くにまで届いていて、

人によっては、

自分が世の中から孤立したと感じるまで

わからないこともあります。

 

そして、こう思います。

「あー、あんなに憎んでいたのに、

これほど腹を立てていたのに、

それもまた彼・彼女とつながることが

できないと感じる反動の

裏返しだったんだ…」

ここでいう彼・彼女とは、

目の前で感情を湧きたたせている

相手であるとは限りません。

 

4.そこにいる必要はある?

私たちが感情を感じるとき、

それが今目の前で起こっていること

に対してであっても、

自分の中に閉じたものであっても、

そこには肉親なり、

生まれ育った環境なり、

これまでに培ってきた感覚による

つながりに根差しています。

自分は自由に生きるんだ、

周囲は関係ない、という

その感覚さえ、

つながりの中で育まれた感覚が

基準になっています。

 

人とのつながりの感覚に根差しているのは

その基準、土台のこと。

 

怒りや哀しみや憎しみや無力感などの

感情に押しつぶされている時、

際限なく落ち込んでいく感覚に

襲われることがあります。

その時の関係性と感情の解釈をもとに、

相手と、そして返す刀で自分とを

否定し続けるためです。

 

もしその状態でもいいというなら、

特にいうことはありません。

でもその状態が苦しくて仕方ないなら、

その感覚、感情は、

少しの間そのままにしておいて、

その根っこにある基準、土台がどうやって

築かれたのかについて

考えてみてください。

 

その基準、土台は

誰との関係の中で

なぜ、そしてどうやって

作られたのでしょう。

 

それがなぜ今になって、

自分を苦しめる基準に

なっているのでしょうか。

かつてその基準が有効だったことは

何なのでしょうか。

 

そこにいることで苛まれている違和感から、

人とのつながりの感覚のエラーを

認識することができると、

そこが本当に自分の居場所になっているかが

わかります。

 

人の問題なのか、

やっていることの問題なのか。

人の関係を変えるべきなのか、

働き方、仕事を変えるべきなのか。

 

生き方、働き方は無数にある中で

なぜ今こうなのか。

同じように、人の関係も無数にある中で

なぜ今こうなのか。

 

その中で、自分が得るべき関係、

得るべき場所をどう実現していくかは、

自分にしかできないことです。

感情は勇気を得るためのもの。

翻弄されるものではありません。

そしてあらゆる感情の元をたどっていくと

そこに必ず勇気の原動力が眠っています。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『てんとう虫見つけた。』