一挙手一投足の変化を見守ろう

日々の棚卸

 

心理の世界に限ったことではありませんが、

どんな分野、世界であっても、

私たちはそこに足を踏み入れることで、

能動的か受動的かはともかく、

自らを変化させます。

変化させたい、

変化が必要、

と思って、

実際にいろいろと試みることもあれば、

なんか予想と全然違うんだけど、と

感じつつ、

そこまでの流れがあって、

やらざるを得ないことができて、

やっていくうちに、

必然的に変化していくこともあります。

 

自主的に選択した

講座だとかセミナーだとか

学校だとかクラブだとかであれば、

能動的に行動して、

能動的に変化していくでしょうし、

食べていくためだからとか、

世間体がいいからとかで

就職して働くような場合には、

変化もおのずと受動的になりがちです。

 

変化する、と言ったけれど、

それは決して、

ハッピーな方向の変化だとは限りません。

特に、短期的な変化は、

往々にして逆説的なメッセージとして

表れたりします。

当人にとって良いと思っていた変化が

実はおかしな方向へつながっていたり、

反対に、

こんな苦しいのにな、

と思っていたものが、

考え方、受け止め方の変化によって、

新しい世界を開くきっかけになったり

とか。

 

そうやって変化を試みた行動は

なかなか結果が出なかったりして、

ともすればとん挫しがちです。

最初は、

何かできそう、

凄いことが起きるかも、

自分にも何とかなるのでは、

などと淡い期待とともに、

トライしてみて、

途中で挫けそうになっても、

あきらめちゃいけないと

言われたり、思ったりして、

頑張ってはみるのだけれど、

やっぱり望む感覚が得られずに、

最後は半ばへたり込むように、

あるいは放り投げるように、

その試みから離れていったりします。

 

やっぱ、

ボクでは、

ワタシでは、

うまくいかないのかなって。

 

多くの人が自分を変えたいと願っていて、

あちこちにTips(ヒント)を求めています。

そして、それらのTips(ヒント)をもとに、

多くの人がまじめにそれらを試み、

結果が出ない、

良くなっても一時的みたい、

と、

その捗々しくない感触とともに、

試みを手放してしまいがちです。

 

変化、気づきもそうですが、

そういった人たちは、

一つ、

とてもとても、

ほんとに大きな勘違いをしています。

 

それは、すぐで変わる、ということ。

 

嘘です。

 

すぐには、変わりません。

 

夢も希望もなくすような、

巷にあふれる内容とは相反する発言で

誠に恐縮の至りですが、

あえてこの場でお伝えします。

 

少なくとも、

そのくらいの心持ちの方がいい。

そう思います。

 

正確に言えば、

変化自体は一瞬かもしれないけれど、

そこに至るまでに

ちょっとした

積み重ね、

蓄積、

試行錯誤、

そういったことが必要です。

 

「自分を信じてごらん」

と言われて、

そうしてみたら、

ちょっと気分がよくなったような気がした。

変化の芽が出たのかもしれません。

でも、これを長く続けることは難しい。

これを自らの血肉になるまで

消化・昇華することはもっと時間がかかる、

そういうことです。

 

小さな問題の解決なら、

一度のトライで変化することもあります。

 

でも、私たちが望むのは、

生き方とか、

人生とか、

そういったレベルの変化なのだから、

少なくとも3分瞑想したら、

『全て』完了、

はあり得ません。

 

ただ、

それを踏まえた上で継続することができれば

そこに至るプロセスは、

それまで歯を食いしばって

生きてきたときのような、

苦痛とか吐き気とかいった

ただの我慢比べのような、

あるいは嫌悪を催すような感触とは異なり、

一定の心地よさを感じる時間に

なるのではないかと思います。

なぜなら、

変化の試みの中には『必ず』

いつも述べていること、つまり

自分を受け入れるフェーズが

存在するからです。

また、

そのフェーズがない変化というものは

あり得ません。

 

心地よさは、そのまま、

肯定的な未来への予感にもつながります。

自分をしっかりと見つめる時間なのだから、

心地よさを感じることは

不思議ではないですよね。

もちろん、これは後から振り返って

言葉にしたらそんな説明になる

ということであって、

変化を感じ出した当初は、

慣れていないその感触というか感覚に

違和感を覚えて

おっかなびっくりになるかもしれません。

それを、もう一人の

これまでほとんどで会っていなかった自分の

感触として、付き合い続けられるかどうか。

 

変化は、

些末なところから、

気づかないうちに始まり、

気づいた時には終わっています。

もちろん、

気づく人もいるでしょうが、

それはごく一部の方ではないでしょうか。

私のような凡才などは、

信じて、愚直にこなして、

その時々のお世話になったプロの方に

問いを発し、

時には衝突しながら、

ある時自分を見つめて、

「あ、なんかずいぶん変わったな、おれ」

といった感じでした。

 

変化は、

いろんな次元で、

抱える問題の種類に応じて

幾重にも生じますし、

慣れてくると、

変化が生じるように

考え、

試し(行動し)

痛みと快楽を感じ、

安定し、

また次にうつる

と言ったことを繰り返すうち、

良くなってきた自分を感じるとともに、

また次の問題を見るようになります。

もっとも、その時の問題は既に

残酷さや絶対性や胡散臭さといったものを

感じさせるようなものでは

なくなっていますけどね。

なぜなら、そこに至る過程で、

変化の道のりを旅してきたあなたは、

そこにある問題が既に、

自分が描いたものだとわかっているからです。

 

繰り返しますが、一瞬の変化というものは

そうそうありえません。

やっぱりそれなりに蓄積が必要で、

その時間に積極的に取り組むことが

望ましい。

積極的という言葉は、

こういうジャンル(?)では

タブーにされがちですが、

自分を見つめる時間、

自分を知る時間、

への取り組みとすれば、

さして無理のある表現でもないのでは

ないでしょうか。

 

そういった時間を信じることができず、

自己批判が、

自分を押し潰すほどに強いときは、

何をしているときでもつらいものです。

一歩足を前に出す行為も、

立ち上がることも、

人と視線を合わせることも、

パソコンのキーを打つことも、

洗い物をすることも、

布団から出ることも、

ほんとに何もかもがつらい時があります。

 

必然、

鬱で寝込むのでなければ

犯人探しがはじまります。

仕事があわない、

上司が嫌だ、

から

、過去の親からの仕打ちが、とか。まで

でも、

行き着くところは

どこまでいっても自分です。

自分が、自分をどう扱ってるか、

これにつきます。

気がついたところで、

自分の扱い方を変えて、

自尊心が備わってくると、

周りに左右されなくなって

一挙手一投足の変化に感動するようになります。

そこから、さらに自分との新しい付き合いが

進むんです。。。

 

ー今回の表紙画像ー

『プチマイブームの純粋はちみつ』

ミツバチが世界的にいなくなっているとか。。。