誰もが与えられた人生から始めている

日々の棚卸

カウンセリングやクリニックの現場で、

あるいはその時々に知り合った中で、

様々な家庭環境で生まれ育った人を

見てきました。

お金持ちだったり、

お世辞にも豊かとはいえない家だったり、

ご両親が朗らかな家だったり、

いつも罵り合っている家だったり、

シングルペアレントの家だったり、

両親がいない親類の家だったり、

養護施設だったり、

親はいるけれど家に寄り付かず、

小学生の頃から渡されたお金で

自分でやりくりしていたり。

 

うまくいっている人、

独立しているように見える人、

しっかり自分を持っている人、

人生を楽しんでいるように見える人、

世の中で“普通”と言われる人の多くが

実は、親や生育環境の中で培った

価値観に沿って人生を生きています。

私自身、自分が受け継いできた

小さな世界の中で凝り固まっていた頃、

両親との関係や、

父母の関係のおかげで、

多少特異な人生を送ってきたと

思い込んでいたせいもあって、

もっと“普通”の家庭で育った人は

もっと容易に、

生育環境で培った呪縛を解いて

好きな人生を生きられるはずだ

とも考えていました。

今にして思えば、

悲嘆と嫉妬の混じった

残念な考え方をしていたのだなと

当時を振り返って思います。

 

その頃よく思っていたこと。

“普通”と言われる環境から

あぶれてしまった人たちは、

どうすればいい?

もう“普通”になることは無理?

自分を蔑むか、人を見下すか、

嫉妬と冷笑と恨みの呪いの中で

世の中を渡っていく?

 

自分のことに凝り固まっていて、

自分が不遇であると思い込んでいて、

自分に何かができるとは全く思えなくて、

そもそも自分が何かをしようという発想も

全く浮かんでこなくて、

そんな人生の中で自分自身に問いかけたこと。

その答えは…

「そんなのは、嫌だ。

死ぬまで、嫉妬と冷笑と恨みの呪いの中で

ずっと生きていくなんて、絶対に嫌だ。

そんな生き方だけは、間違って送らない」

ということ。

何をどうしたらよいかなんて

全く分からなくて、

五里霧中の表現そのままの

光が何も見えない状況だったけど、

ただそんな想いだけは確かに

胸の中に響いていました。

 

それは誰かの人生ではなくて、

自分がいる人生であることを

身につまされて感じたこと、

自分で何とかする第一歩を起こすこと、

嫌なことをしなくて済む人生を実現すること、

それらをなしていく必要があるのは、

他の誰でもない、自分であることを、

理解した時、

自分を受け入れ、

変わっていこうと思えるようになりましたし、

実際、徐々に、しかし確実に

変化が継続されるようになりました。

不思議ですよね。

変えたいはずの自分、

遠ざけていたはずの自分を、

そうしていること(遠ざけていること)に

気づいて、受け入れた時、

変えたい(元の)自分に固定されるのではなく、

変化が始まるのですから。

自分の世界が広がった、

あるいは

かつての自分が身を置いていた世界の

外側に出ていた、

そんな風に感じた瞬間でした。

 

誰もがスタート地点では、

与えられた人生を生きています。

一番勘違いしがちなことは、

親や生育環境で培った価値観から

自由になって生きている

と言っている人々で、

もちろん中には自分を変えて

そんな人生を得た人もいるでしょうが、

多くは親もまたそうやって生きてきて

その無言のメッセージに沿って

人生を歩んできたら、

そんな人生だった、という場合が

少なくないことです。

それほどに、生育環境で培った価値観は

莫大で、しかもそれと感じさせずに

影響し続けるのです。

 

与えられた人生が悪いわけではない。

ただ、近年の生きづらさや閉塞感に

何とか自分や人生を変えたい方が

はっきり言って多くいらっしゃる

ということは、

それだけ今の自分の外側に出たいと

希望する人が数多いる、

ということだと思います。

 

誰かの人生を生きているわけではない以上、

求めるべきは自分にとって

良い人生だと思います。

それ以上でも以下でもありません。

身も蓋もないと言われれば

その通りなのですが、

本当にそれにつきます。

私自身も、先述のように

自分にとっての良い人生、

できれば最良の人生を歩もうと決めて

生きるようになりました。

どこまでできているかはわかりません。

ただ、自らを振り返るに、

そう思って生きてきて、

今ここにいます。

 

ー今回の表紙画像ー

『ある日の西湘海岸夕景』